日々是総合政策No.294

スウェーデンの地方税(5)-税の偏在③

 今回は地方税の偏在度(変動係数)について、スウェーデンと日本を比較します。日本の計測値は橋本の労作(注1)からの引用です。

 図1 スウェーデンと日本の一人当り地方税収の変動係数 (2006-2017年)

(出所)1.地方税J(日本)は注1、191頁、図1より。

    2.地方税S1,S2(スウェーデン)は、注2より筆者算出。

   図2  日本の税目別一人当り税収の変動係数(2006-2017年)

(出所) 注1、192頁、図2より。

 図1は日本(J)とスウェーデン(S)の住民一人当り地方税収 (ともに道府県税と市町村税の合計で、Jは道府県単位、Sはコミューン単位)の地域間変動係数を示します。S1は実際の税率下の税、S2は各地域の税率を同一とした税です。一貫してJの変動係数がS1とS2より高い。その原因を図2により考えます。
 原因の第一は、地方法人2税(法人住民税と事業税)の存在です。ともに法人企業の事務所などの所在地で課税され、東京等の税収が多くなり変動係数を高めます。スウェーデンは1975年に地方法人税を廃止しました。
 原因の第二は、個人住民税です。最も低い2017年でも0.21近傍でS2(0.13)の1.6倍です。その要因として、まず、個人住民税の配当税・キャピタルゲイン税(税率5%)が考えられます。これにより、富裕層の多い道府県がより多くの税を得ます。他方、S2・S1は資産所得に課税しません。
 次の要因として、個人住民税の所得割(比例税率10%)における多額の所得控除(給与所得控除や公的年金控除など)が考えられます。税率を0.1、課税前所得をY、所得控除をE、税額を  
 TとするとT=0.1(Y―E)  より 
 T/Y=0.1(1―E/Y)  となります。右辺のYが高くなるとE/Yが低下して右辺全体が増加し、結局、高いYほどT/Yが高い累進的負担となり、Yの高い地域ほど税がより多くなります。なお、S2・S1には、多額の所得控除はありません。
 ただ、原因の第二については実証分析が必要です。

  

  1. 橋本 恭之(2020)「地域間の税収格差について」関西大学『経済論集』第69巻第4号。
  2. Statistiska Centralbyrån, SCB(2024)

https://www.statistikdatabasen.scb.se/pxweb/sv/ssd/START__HE__HE0110__HE0110B/Skatter
2024年4月1日参照。                      

(執筆 馬場 義久)

日々是総合政策No.293

スウェーデンの地方税(4)-税の偏在②

 本コラムNo.292では2021年のみを取りあげ、スウェーデンの各税の偏在度を比較しました。今回は、2007年から2021年までを扱います。2021年の値は新型コロナ禍の影響を受けているかもしれません。また、長期間を対象にすれば変動係数(標準偏差÷平均)の推移の特徴を観察できます。

図 各税の変動係数の推移(2007-2021年)

(出所)注1に基づき筆者算出。

 図は、地域(290の市)間の一人当り税収の偏在度(バラツキ)を示します。実際の地方税(勤労所得税)、国の所得税(勤労所得税)、資産所得税(国税)に、2008年導入の地方住宅負担金を加えました。同負担金は、国が持家の課税価値に原則0.75%課し徴収した後、補助金として各市に交付します(本コラムNO.291を参照)。図では、固定資産税のように、持家の存在する市が同負担金を徴収すると想定しました。固定資産税は、日本をはじめ多くの国で地方税の一つとなっているため、同負担金をとりあげます。
 全期間を通じて地方税の変動係数が一番低い。しかも、その値が安定しています(0.10から0.12の近傍)。次いで、地方住宅負担金が0.25から0.29の近傍で低くかつ安定的です。同負担金の課税価値に天井(限度額)があり、天井以降は定額負担となり、2021年の負担額は11.6万円です(注2より)。この措置と、持家の保有資産階層別格差が株式のそれより小さいことから、その変動係数が資産所得税より大幅に低くなったのでしょう。国の勤労所得税と資産所得税の変動係数は全期間を通じて高いですね。しかも、資産所得税はキャピタルゲインが株式市場の影響を受けるため、変動係数の変化が著しい。たとえば、2008年の低下はリーマン・ショックによるものでしょう。


1.Statistiska Centralbyrån, SCB(2024)
https://www.statistikdatabasen.scb.se/pxweb/sv/ssd/
2.Skatteverket, SKV(2024)
https://www.skatteverket.se/privat/skatter/beloppochprocent/2020.4.7eada0316ed67d728238ec.html?q=Belopp+och+procent-inkomst%C3%A5r+2020

ともに2024年3月1日参照。                   

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.292

スウェーデンの地方税(3)-税の偏在

 地方税原則(地方税が満たすべき基準)の一つに「税の偏在度の少なさ」があげられます。住民一人当りの税が特定地域に偏在すると地方支出の受益格差が生じます。税が極端に少ない地域では、必要不可欠な行政サービスさえ受益できないでしょう。
 表は、スウェーデンの地方勤労所得税(以下、地方税と略記)と他の税の偏在度-一人当り税のコミューン間格差の程度-を示します。コミュ-ン(以下、市と略記)の総数は290です。

表 一人当り税の変動係数 (2021年)

(注記)最大/最小は290の市における一人当り税の最大値÷最小値。
(出所) 注1に基づき筆者算出。

 変動係数は標準偏差÷平均でこれが大きいほど、税(一人当り。以下同じ)の地域間格差が大きいことを示します。
 均一地方税は各市の税率を同一と想定した税制です。市の税率差異が税の格差に与える効果を除くためです。税率が同一なので、この税の変動係数は課税所得のそれに一致します。地方税は、市によって税率の異なる現行税制を指します。
 表から、地方税の税率差異は均一地方税の格差を緩和しています。一人当り課税所得の高い市ほど低い税率を採用するからでしょう。
 国の所得税(勤労所得税)と資産所得税は国税ですが、国への納税分を納税者の居住地(市)にふり分けました。
 国の所得税の税率はゼロと20%の二段階で、20%は52.3万クローナ(約732万円)を超える勤労所得に課されます(注2より)。税の負担者が高所得層だけなので、この層の多い市が税を多く得ます。二つの地方税は低所得層を含む全所得階層が負担し、しかも、同一市内では比例税率です。
 資産所得税は利子・配当・キャピタルゲインに税率30%を課します。富裕層がキャピタルゲインを多く得るため、富裕者の多い市ほど税が多くなります。二つの地方税は資産所得に課税しません。

  1. Statistiska Centralbyrån, SCB(2024)
    https://www.statistikdatabasen.scb.se/pxweb/sv/ssd/
  2. Skatteverket, SKV (2024)
    https://www.skatteverket.se/privat/skatter/beloppochprocent/2020.4.7eada0316ed67d728238ec.html?q=Belopp+och+procent-inkomst%C3%A5r+2020

ともに2024年2月10日参照。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.291

スウェーデンの地方税(2)-国際比較

 今回はスウェーデンの地方税の国際的な特徴を紹介します。

表 地方税の国際比較(2021年)

(注記)対GDP比と所得税比の単位は%.

(出所)注1より.

 表は注1のOECD(2024)に基づき、北欧4国と日本・フランスの地方税を比較しています。地方税総額の対GDP比(地方税÷GDP)が高い国々を選びました。スウェーデンが15.1%とOECDの38カ国中トップです。また、他の北欧三国も高順位です。日本は7.7%でノルウェーを上回っており、筆者は意外に高いと思いました。 
 表の所得税比は、地方税総額に占める地方所得税の割合を示します。スウェーデンとフィンランドの地方所得税は勤労所得税のみで、デンマーク・ノルウェー・日本は勤労所得税だけでなく資産所得税を含みます(注2より)。たとえば、日本では利子・配当・株式のキャピタルゲインなども5%の地方税が課されます。
 この所得税比でもスウェーデンが97.4%とトップです。同国の勤労所得税以外の「地方税」は地方住宅負担金です。ただし、これは国が同負担金をいったん徴収し、それを補助金としてコミューン(市町村に該当)に配分しています(注3より)。しかも、同負担金が地方税に占める割合(2.6%=100-97.4)も低いので、本コラムでは、勤労所得税をスウェーデンの唯一の地方税と考えます。
 日本とフランスは所得税比が低いですね。フランスはゼロです。同国では、固定資産税や消費関連税(消費税を含む)が地方税です(注1より)。日本は、所得税の他、法人関連税・固定資産税・地方消費税などが地方税です。
 スウェーデンは、対GDP比で見て国際的に最も高率の地方税を、勤労所得(労働所得+年金等。本コラムNo.289を参照)税のみで調達しているわけです。

  1. OECD (2024) Revenue Statistics – OECD countries: Comparative tables
    https://stats.oecd.org/viewhtml.aspx?datasetcode=REV&lang=en#
  2. PWC (2024) World Tax Summaries Online
    https://taxsummaries.pwc.com/
  3. Riskrevisionen (2022), Statens finansiering av kommunerna, RIR (2022:1) p.17.

1と2は、2024.1. 25参照。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.290

アーロン収容所

 朝の通勤ラッシュのピークを過ぎた地下鉄の車内で、向かいの席の若い女性が一生懸命化粧をしていた。口紅を少し直すのでなく本格的だ。化粧は化けると意味を含み古来には神事で神様の心を和らげる意味があったらしい。神様でない私には、舞台裏を堂々と見せられているようで違和感を覚えた。昔はあり得ないことだと思いながら、小学生の時の山手線で見た風景を思い出した。
 ステッキを持ち中折れ帽をかぶり上等な背広を来た小柄な老人が車内を小走りに歩く。後から秘書らしい中年の男が大きなカバンを大事そうに抱えて懸命に続く。ブツブツ言いながら邪魔になる乗客の組足をステッキで叩く。乗客も呆れるばかりだ。運転手付きの社長車に乗る人物が何故かこうなったようだ。そうでなければ喜劇映画の一幕だ。オーナー社長風の老人は車内を自社の廊下と同一視し、化粧をする若い女性は車内を自宅の化粧室とか洗面所と思っている。2人とも“場違い”を地で行く。
 でも、もしかしたら。3年間勤務したミャンマーのアーロン(現ヤンゴン市内)にあった英軍捕虜収容所での会田雄次氏(西洋史学者)の体験に繋がるのではないか。収容所では強制労働として英軍兵士の部屋の清掃作業もある。ある日、部屋に入ると、女兵士が全裸で鏡の前で髪をすくっていたが平然としている。常識では考え難いが、日本人を家畜と同様に考えているようだ。犬や猫に見られても恥ずかしがることもない。西欧人の人種差別意識を暴き出したと言われる。
 車内で化粧に勤しむ彼女は“場違い”の意識でなく、他の乗客を家畜並みに考えているのではないか。目的地の駅に到着した。ドアが開き、犬が出る。猫、牛、馬、私と続く。彼女は動物に目もくれず化粧に専念している。でも、車内の女性全員が化粧をし始めたら、犬も猫も牛も馬も居た堪れずに噛みつくかもしれない。いや、更に老若男女全員が自分以外を動物と考えて、化粧だろうが何だろうが勝手にやれば、車内は大混乱、カオスとなる。アーロン収容所では英軍の武力が動物達を統制しているに過ぎない。
 そう思いながら、雑踏の中で他人と接触しないように上手に歩いている自分に気づいた。

(参考文献)会田雄次(2018)「改版 アーロン収容所-西欧ヒューマニズムの限界- 」(中公新書)

(執筆:元杉 昭男)

日々是総合政策No.289

スウェーデンの地方税(1)-本コラムの主題

 これからスウェーデンの地方税を取りあげます。今回は同国の地方税の基本的な特徴を紹介し、本コラムの主題を提示します。
 スウェーデンの地方政府は20のランスティング(都道府県に該当、以下、県と略記)と290のコミューン(市町村に該当、以下、市と略記)からなります。以下の地方税とは、県税と市税の両方を指します。
 スウェーデンは地方分権の国で、地方政府が当該地域の公共支出の提供責任を負います。これは、国よりも地方政府の方が地方支出に対する住民のニーズを熟知していると考えるからでしょう。同国の地方支出の中心は、医療(県が担当)、教育・児童保育・介護(市が担当)です。
 地方支出を賄う税については、地方政府に「どの税を採用するか」という税目の選択権は与えられず、勤労所得税のみが認められています。なお、同国の勤労所得税の課税対象は労働所得だけでなく、失業給付・疾病給付・年金等を含みます。労働に伴うリスク-失業・疾病・退職-に直面している「広義の勤労者」の得る所得(社会保障給付)も、リスクに直面していない勤労者の労働所得と同じように課税するという考え方と思われます。年金も課税するので全世代型勤労所得税です。
 他方、地方政府は税率決定権を持ちます。2021年の290の全市における税率(県と市の合計税率)を見ると、29.08%から35.15%に分布し平均は33.17%です。しかし、全市の約80%が32.05%から34.95%に属しています(注に基づき、筆者算出)。なお、同一地方政府内では均一税率(比例税率)で、住民の勤労所得額に関わらず同一の税率が適用されます。
 本コラムでは、勤労所得税のみを地方税とする方式(以下、単一税方式と略記)に注目します。他の多くの国々は地方税として多様な税を採用しているからです。たとえば、日本では、勤労所得税をはじめ資産所得税・法人住民税・固定資産税・地方消費税などが地方税です。いわゆるタックス・ミックス型ですね。スウェーデンの単一税方式のメリット・デメリットは何か?この点を考えます。


Statistiska Centralbyrån, SCB(2024)https://www.statistikdatabasen.scb.se/pxweb/sv/ssd/START__OE__OE0101/Kommunalskatter2000/ 2024.1.10参照。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.288

再考:純資産税(11)-超富裕層の脱税

 今回は、Alstadsæter et al.(2019)の研究に基づいて超富裕層による脱税の実態を紹介します(注)。言うまでもなく、脱税(Tax Evasion)は税法違反であり処罰の対象となります。
 この研究は、北欧(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク、以下同じ)の居住者が、海外(非居住地)の金融口座を利用して行った脱税を資産階層別に推計しています。北欧は他の多くの国と同様、世界所得課税方式を採用しています。よって、その居住者は、海外の金融機関にある資産や資産所得を申告し納税する義務があります。
 分析に使用したのは、主に、スイスのHSBC銀行及びモサック・フォンセカ(Mossack Fonseca:パナマの法律事務所)のリークデータです。前者はSwiss Leaks(2007),後者はPanama Papers(2016)と呼ばれます。ちなみに、前者では、顧客30412人(その大部分が脱税者)の内部記録が漏出しました。
 この研究は、リークデータの隠し口座等とノルウェー・スウェーデン・デンマークの申告書データ等を照合し、三国をあたかも「北欧一国」であるかのように統合した上で、家計における資産階層別の脱税を推計しました。なお、北欧では資産・所得のミクロ・データが整備されています。
 その主な推計結果は、全家計を純資産保有額の多い順に並べた最上位0.01%の家計(純資産保有額5000万ドル超)の脱税率が25%というものです。ここで脱税率は、海外の金融口座による脱税が、支払うべき税(=海外口座分の税+国内の純資産税・資産所得税・勤労所得税等)に占める割合です。
 なぜ、このような超富裕層の脱税が可能なのか?この研究によれば、たとえばスイスに、資産隠しなど「脱税サービス」を売る銀行が存在するからです。この種の銀行は、主として超富裕層を顧客とします。この階層からは巨額の料金収入が得られ、しかも、顧客数が少人数なので発覚の確率が低くなるからです。
 以上から、Alstadsæter et al.(2019)は、超富裕層の脱税を減らすには、脱税の需要者(脱税者)に対する刑罰の強化より、脱税サービスの供給者(金融機関等)に対する制裁が有効と述べています。

(注)
 Alstadsæter, Annette, Niels Johannesen, and Gabriel Zucman (2019) “Tax Evasion and Inequality.”American Economic Review 109 (6): 2073–2103.

                          (執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.287

再考:純資産税(10)-潜在的長所

 今回は、純資産税の長所を資産所得税や相続税と比較しながら考えます。ご存じのように、米国では超富裕層への富の著しい集中が生じています。2019年の純資産保有家計を保有額の多い順に並べたとき、その最上位1%の超富裕層が、全米家計の純資産の41%を保有しています(本コラムNo.263より。)。
 このような超富裕層への資産集中の是正を税制で図るとします。この場合、純資産税には以下の長所があります。
 第一に、累進的な純資産税は資産保有自体の格差を課税前より縮小します。他方、キャピタルゲイン税などの資産所得税は、資産自体ではなく資産の生み出す収益に課税するので、累進的タイプであっても、資産所得の格差を是正するだけです。また、相続税の課税対象は相続資産ですから、自らの起業(創業)によって蓄積した資産などには課税できません。
 第二に、純資産税は資産格差の是正を素早く行います(注、p.500より)。他方、キャピタルゲイン税や相続税は課税に長い時間を要します。キャピタルゲイン税は、株式等の資産の売却額から購入額を差引いた額に課税するので、資産の売却を待たなければなりません。もちろん、相続税は超富裕層の死亡が課税の条件です。
 しかし、上記の純資産税の長所は「潜在的」なものに過ぎません。その実現には、少なくとも以下が必要不可欠です。
 第一に、納税単位-個人あるいは夫婦・世帯など―ごとに、その保有資産をもれなく捕捉できる徴税システム。これはマイナンバーによる公金受取口座の紐付けで済む問題ではありません。少なくとも、各銀行口座の預貯金、各特定口座の金融資産、及び別荘を含む不動産の納税単位別紐付けが必要です。
 第二に、超富裕層による課税資産から課税優遇資産への振替えを防ぐ措置。そのためには、課税対象を広くして、非課税扱いなどの課税優遇資産を少なくすべきです。しかし、これまでの純資産税採用国は、価値評価の困難さや産業保護の理由から、非上場株・農地などを課税優遇扱いにしてきました。この事実をふまえた対策が求められます。
 第三に、純資産税を採用していない国々や、いわゆるタックスヘイブン(租税回避地)への資産移転を防ぐ国際的なシステム。


Summers, A. (2021), Ways of taxing wealth: alternatives and interactions. Fiscal Studies, 42, 485–508.

  (執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.286

私の忠犬ハチ物語

HP:「東大にハチ公と上野英三郎
博士の像を作る会」事務局

 渋谷駅前のハチ公像は外国人の写真スポットとなっているが、今年は秋田県大館市に生まれたハチの生誕百年である。飼い主の上野英三郎博士(東大教授)は我が国の農地の灌漑排水や区画整理など土地改良技術の始祖で、ハチは秋田県庁の教え子から贈られた純粋種の秋田犬だった。子供のいない先生夫妻はわが子のように可愛がったが1年半後に先生は急逝した。
 先生の自宅は渋谷駅と農学部のあった駒場の中間にあり、講義には駒場に向かい、出張には駅に行く。先生死後にハチは長期出張と考え10年間駅に通い続けた。焼き鳥欲しさではない。夜行列車で朝に駅に着くために店が開く夕刻でなく朝から待ち、死因も串ではなく癌である。
 先生の学科出身の私は、10年前、東大本郷キャンパスに上野博士とハチが一緒にいる銅像を造る事業の手伝いを頼まれた。発案は、東大文学部哲学研究室で動物と人間との関係を研究テーマにする一ノ瀬正樹教授である。ハチだけが渋谷駅に鎮座し、先生の胸像は学科の入り口にポツンと置かれていて、学生が胸像を担いで渋谷まで行き、ハチと対面したこともあった(現在、胸像は資料館にハチの臓器と一緒に陳列)。
 寄付集めは同窓生以外に、獣医学関係者に協力を求めたが意外にも冷淡だったが、関連団体の会報に紹介文を載せてもらった。最後には土地改良事業関係の計画・設計会社に頼んで1000万円近くを集めた。ハチジュウ(80)年目の命日、2015年3月9日に除幕式が挙行された。500人余りの人だかりには、見事な体形の秋田犬とデビ夫人もいた。
 大型犬は人に飛びついて転倒しないように訓練するとも囁かれ、それでは訓練失敗例の像になってしまう。たが、一ノ瀬教授は「犬は人間より道徳的に高潔である」と言う。忠人○○公と呼ばれるのは難しい。

(参考文献)ご興味のある方は、「一ノ瀬正樹・正木春彦編(2015)、東大ハチ物語、(一社)東京大学出版会」をご一読願います。

(執筆:元杉昭男)

日々是総合政策No.285

農作業準備休養施設

 米の生産過剰の中で政府米価引上げのエネルギーを農村の生活環境改善に向ける。農林水産省では昭和40年代から西欧を参考に農村整備事業を推進した。その事業計画担当になった私は、限られた予算額の中での事業計画調整に苦労した。多くの要望の中に、農地の真ん中に、休憩施設、更衣所、水飲・手洗場、トイレ等を備えた共用の建物である農作業準備休養施設の助成があった。農家は自宅の周りに耕作する全農地があるわけではない。小面積で分散した農地を沢山持っている(注1)。どうしても通作距離が長くなる。農水省の進める経営規模拡大をすればさらに長くなる。そんな事情もあって、農機具、肥料、農薬等の農作業の準備の他に、共同作業の調整を行い、農家同士が語らいながら昼食を取り、休養し、泥などをシャワーで落とし帰宅する。時には地域の人々の会議室にも使える施設である。
 一番重要なのはトイレで、作業中に尿意を催した時に一々自宅に帰るのは困難だ。それなら、工事現場で見かける簡易トイレだけの設置で良いではないかと言ったら、女性は見通しの良い広々した田んぼの真中で簡易トイレに入る姿を見られることに抵抗があると反論された。結局、駐車場も付いた集会室・トイレ・シャワーなどを備えた施設が整備されたが、夜間に若い男女がラブホテルに活用する例が出てきた。
 事業の費用対効果は都市と違って人口の疎らな農村では難しい。農林水産省も灌漑排水・農道・区画整理などの農業事業と一体的に整備して効率化する事業計画を進めた。当時、若き日の黒川和美先生が強調された「結合供給」(注2)論に心酔していた私には思いもよらぬフリー・ライダーの出現だった。それから30年、東日本大震災が発生した。津波被災地の集落が高台移転した後、復旧農地の真ん中に3階建ての堅牢な農作業準備休養施設を作り、津波時に作業中の農業者が自宅に帰らず、農機具とともに施設に退避し上層階または屋上に避難する。避難車の渋滞を緩和し農業者以外の避難場所にもなる。そんな計画を提案した。甦る結合供給。ただし、夜間の施錠だけは厳重に。

(注1) この状態を零細分散錯圃と言われ、我が国の農業構造的弱点である。
(注2) 「日々是総合政策No.98」を参照願います。

(執筆:元杉昭男)