日々是総合政策No.234

自宅療養を克服する地域医療

 友人のお嬢様一家がコロナに感染とのメールに驚愕しました。「中学2年と3年の男の子と両親の4人家族ですが、最初に中学2年生の男の子が学校で感染、日をおかずに在宅勤務中の父親と3年生の男の子が発症、高い熱と激しい頭痛、強い倦怠感に襲われほとんど動くことが出来ない状態になりました。その後、一人で3人の面倒を見て頑張っていた母親も動けなくなりました。保健所から一日一回、電話があるとのことですが、自宅療養とはこういうことでしょうか。父親は基礎疾患があり入院を頼んでいますが、ベッドに空きがないとのことで待機しているところです。」と書かれていました。              
 肺炎や呼吸不全に苦しむ中等症の患者、集中治療室や人工呼吸器を要する重症患者を治療する医師と看護師、加えて設備・器具の不足が軽症者、無症者の自宅療養を強いています。しかし、自宅療養中に病状が急変、死亡する事例が目立ち始め、自宅療養を減らす対策が急務になっています。しかし、既に2014年に質の高い医療を効率的に提供する連携構想が制度化、2016年には2025年の医療需要と病床の必要量を想定した地域医療構想が策定されています(注1)。今こそ、この構想を実現すべき時ではないでしょうか。
 地域社会において市民を支えているのが保健所(注2)、公立・民間病院、かかりつけ医です。しかし、保健所にしても、帰国者・接触者の受診調整、患者の入院・宿泊療養措置、地方衛生研究所への検体搬送さらに疫学調査などの業務が山積し、地域の住民、医師からの電話も通じないとの苦情が寄せられるほどです。医療機関も急増した患者に思うように応じられない状況に追い込まれています。
 この事態を打開するのが、医療従事者間のコミュニケーションを促進、治療効率を高める広く安全な場所であるように思われます。期間を限り、オリンピック選手村や競技場を活用できないでしょうか。また、地域住民の健康を守る保健所のスタッフの増員を急ぐ必要があるのではないでしょうか。しかし、外食・観光業などが苦境に喘ぐ中、有効な政府支出と民間の協業が不可避と思われます。昨年、民間部門でもコロナ債が発行されました。さらに個人向けコロナ債(注3)が発行され、コロナ克服意識の高揚に期待が掛かりそうです。

(注1)2020年10月時点の新型コロナ患者受入率は、100床あたりの常勤医師数を基準として、医師数10人未満が22%、以下、10人以上20人未満50%、20人以上30人未満79%、30人以上40人未満87%、40人以上50人未満89%、50人以上93%となっています。ただし、受入率は、医療機関等情報支援システム(G-MIS)に報告があった全医療機関のうち急性期病棟を有する医療機関から、100床未満の医療機関を除いた医療機関(2,811医療機関)を対象にしています。厚生労働省「地域医療構想」および「新型コロナウイルス感染症を踏まえた地域医療構想の考え方について
(注2)緒方剛「新型コロナウイルス対応における保健所の役割と課題」
(注3)2020年9月、三菱UFJ銀行が個人向けコロナ債を1,500億円発行することになりましたが、世界初の試みでした。その目的は、新型コロナによって収入が減少した中小企業や感染防止策を要する病院・製薬会社への融資です。日本経済新聞2020年8月22日。
注のURLのアクセスはいずれも2021年8月27日。

(執筆:岸 真清)

日々是総合政策No.233

コロナ禍での「夜の余暇」を開発しよう

 新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴い、初めての緊急事態宣言が発出された2020年4月以来、1年半が経過しようとしています。コロナ禍の前は、「ナイトタイムエコノミー(夜の経済)の活性化」なども地域の経済活性化策として取り上げられ、ハロウィン等の機会には、様々なイベントも開催されたことも記憶に新しいと思います。
 「ナイトタイムエコノミー(夜の経済)」と言えば、なんだかお酒を飲みながら、時間を過ごすことをイメージしやすいかもしれませんが、例えば、スポーツを楽しんだり、芸術文化に触れるために、美術館に足を運んだり、映画を見に行ったり、街中で行われる芸術祭を楽しんだりすること、さらには街中で開催されるイベントに参加することなどが挙げられます。仕事が終わった後、夜に余暇の空間と時間を創り出し、消費機会を増やしていくこと、これがナイトタイムエコノミーの意義であるように思います。
 これは都市部だけではなくて、地方部においても、経済活性化の起爆剤と考えられてきました。ナイトタイムエコノミーと地域資源を組み合わせることで、魅力ある観光資源を生み出していこうという取り組みです。例えば、北海道の阿寒湖のように、デジタルアートによる演出を行い、夜の阿寒湖を散策する体験型アクティビティの提供も、そのひとつです。
 コロナ禍が続く中で、緊急事態宣言が発出されている地域では、お店で酒類の提供することは停止するよう要請がされています。また営業時間の短縮も要請され、夜20時には、街の明かりも消えていき、人通りもまばらになっていきます。一方、長く続く自粛によって、我慢の限界だという声も聞こえてきます。
 いま、考える必要があるのは、コロナ禍の中でのナイトタイムエコノミーの在り方ではないかと思います。もちろん、感染を拡大させてしまうような取り組みや混雑の発生は避けるべきですが、仕事帰りに美術館で静寂な空間の中でじっくりと芸術に触れることができる「ナイトミュージアム」、プロジェクションマッピングなどのデジタルアートと自然を家族で楽しむ夜のお散歩、またはVRなどの技術を活用して、自宅で「ナイトズー」(夜の動物園)を体験したりするなど、地域の資源や技術を活用することで、夜の新たな余暇を開発しすることで、地域の経済活性化を促していくことができると思います。

(執筆:矢尾板俊平)

日々是総合政策No.232

公に議論する文化の醸成

 日本人は意見の違いを公に議論したがらない習慣があり、匿名でないと真実を話さない。
 こう語ったのは、第一次世界大戦中から日米開戦まで、東京から日本社会の姿を世界に伝えたイギリス人特派員ヒュー・バイアス(Hugh Byas)です。バイアスは、日本の情報発信の問題点を、「原則のない検閲」(Blind Censorship)、つまり恣意的で原則のない秘密主義であると指摘しました。彼によれば、情報は原則として開示されるべきであり、国民には何が起こっているかを知る権利がある。報道規制を行うときは、明白な必要が認められる場合に限り、しかもはっきりしたルールに基づいて実施しなければならない。日本政府の各省庁は、信頼できる報道関係者からの問い合わせに対しては、適切な情報を提供しているので、合理性を欠く秘密主義は、日本の立場を必要以上に悪くしている、と述べました。
 さらにバイアスは、日本には「言論の自由」がない。「言論の自由」とは、正確な報道をする以上のことを示すものであり、それは自由な討論が行われ、国民の利益に影響を及ぼす様々なアイデアに対して寛容であること、つまり知的活動の自由を保障することだと語りました。
 1930年代、日本が、満州事変、国際連盟脱退、日中戦争、第二次世界大戦へと突き進むなかで、国内では「言論の自由」が無くなり、政府や軍部の批判は取り締まられ、ついに1945年の敗戦を迎えました。戦後日本は、「言論の自由」を重視してきましたが、昨今のコロナ禍や東京五輪などへの政府や大会関係者の情報発信を見ていると、バイアスの時代から、日本社会はどの程度変わったのかという思いを禁じ得ません。
 今後、多文化共生を目指す日本社会の新しいインフラを創るために、様々な観点から熟議を行い、公論を形成していく必要があります。それは簡単なことではありませんが、時間をかけた議論の内容をきちんと記録に残し、公表していくことが、人々に参加意識を持たせることになり、「言論の自由」を保障することになるのです。公に議論する文化を根付かせましょう。

(執筆:木村昌人)

日々是総合政策No.231

共感を考える(1)

 共感を考えるとき、私たちはアダム・スミスの『道徳感情論』における冒頭の一文を思い起こす必要があります。「人間がどんなに利己的なものと想定されようとも、人間の本性には、他者の運命に関心をもち、他者の幸福を眺めることで得られる喜び以外には何もなくても、他者の幸福をかけがえのないものとするような原動力が明らかに存在しています。」(注1)
 他者が感じていることを、その他者と同じ状況にあれば自分が何を感じるかを想像して、自分も同じように感じることが「共感」の一般的な意味内容です。このときの「共感」は英語の「sympathy」の訳語ですが、共感の英語表現には、「sympathy」の他にも「empathy」「compassion」「fellow-feeling」などがあります。「empathy」は、アダム・スミスの時代には存在しない言葉で、20世紀初頭に心理学の領域でドイツ語から英語に翻訳された言葉です(注2)。アダム・スミスは、「compassion」(同情)を含めどのようなパッション(激しい感情)でも、他者の感情を共有すること「fellow-feeling」を表す広い言葉として「sympathy」を用いています(注3)。
 しかし、現在の英語表現でいう「sympathy」「empathy」「compassion」にはニュアンスの違いがあるようです。同じ体験の有無でいえば、自分と同じ体験をした他者の感情を共有することを「empathy」、自分は同じ体験をしていないが想像で他者の感情を理解することを「sympathy」と表現することが一般的です。あるいは、「empathy」は相手の立場で感情を共有する “I feel with you.” なのに対し、「sympathy」は自分の立場から感情を理解する “I feel for you.” であると言われます。同情としての表現として用いるときに同情に関する感覚の強さでいえば、体験の有無からして「sympathy」よりも「empathy」の方が強い同情を表し、「empathy」(同情の共有)よりも「compassion」(献身的行動まで引き起こす同情)の方が強い感覚の同情を表すと理解されています(注4)。

(注1)Smith, A. (1759 [2002]), The Theory of Moral Sentiments, ed. by Knud Haakonssen, Cambridge: Cambridge University Press, eBook Academic Collection (EBSCOhost) –Worldwide の第1部第1編第1章「共感について」(Of Sympathy)の冒頭の英文 “How selfish soever man may be supposed, there are evidently some principles in his nature, which interest him in the fortune of others, and render their happiness necessary to him, though he derives nothing from it except the pleasure of seeing it.”(p.11)を、水田洋訳(1973)『道徳感情論』筑摩書房および高哲男訳(2013)『道徳感情論』講談社(学術文庫)を参考に、私なりに訳出しています。
(注2)詳しくは、次回以降に述べます。
(注3)このときのパッションは、喜怒哀楽に関係する激しい感情のいずれも考えられています。また、アダム・スミスの原文は次の通りですので、皆さんも皆さんなりに翻訳をしてみてください。“Pity and compassion are words appropriated to signify our fellow-feeling with the sorrow of others. Sympathy, though its meaning was, perhaps, originally the same, may now, however, without much impropriety, be made use of to denote our fellow-feeling with any passion whatever.” ( Smith, A. 1759 [2002], p.13)
(注4)次のURL(2021.8.10最終アクセス)を参照ください。
https://www.dictionary.com/e/empathy-vs-sympathy/
https://eednew.com/esl/difference-between-sympathy-empathy-compassion/
https://www.youtube.com/watch?v=uwyu0hx6wFo&t=42s
ただし、Merriam-Webster’s Dictionary of Synonyms(1984, p. 809)では、 “Empathy, of all the terms here discussed, has least emotional content;” とあり、「empathy」は同義語の中で感情的な内容が最も少ないと記述されています。これは、心理学用語としての「empathy」を含意していると理解できるでしょう。

(執筆:横山彰)