日々是総合政策No.253

大攘夷論始末―朋有遠方より来るー

 本コラムNO.249では、「開国して西洋列強から技術を吸収し、殖産興業と富国強兵により力を蓄えた後に攘夷を実行する」とする大攘夷論が鎖国か開国かで騒然とする幕末の政策的収斂に寄与したと論じ、日本人は実現までは現在の我慢が必要になる思考を好むとした。コラムを読んでくれた友人からメールが届いた。曰く、「後の為に、今は我慢と、何度も我々は高校時代以来やって来たな。それで現在があるのだが、残り僅かな人生を思うと、もう我慢はいいな」と。
 国家政策を論じたつもりが、友人は日々の個人的心情に置換えた。不意に30年前に読んだ本の一節を思い出した(注)。論語には、国家の政策・制度と個人の道徳・心情という二重性が言葉に込められているという。「朋有遠方より来る、亦楽しからずや」(学而第一 1)は、「親しい友人が遠くからやってきて、語らうなどは楽しいではないか」という個人的心情にも読めるが、「遠方の小国家が同盟しようとやって来た。良いこと、うれしいことではないか。」といった国家政策とも読める。古代アジアで活躍した孔子の言葉の特徴とされる。
 経済の世界では、家計や企業のミクロ的経済行動を単純に合成しても、必ずしも国の経済にマクロ的な合理性をもたらさない(合成の誤謬)とされる。政治の世界では、古代アジアなら一人の国王の二重読みで済むが、民主主義国では個々の国民の意思が政治的意思決定の手法により国家の意思・政策になる。国家が国民的支持を得て他国との戦争を決意するとしよう。合成の誤謬もなく、問題があるとすれば意思決定手法にある。しかし、個人の心の中で意思が決まるまで日常の心情と戦争遂行の間で葛藤があり、子供たちのために命を掛けても戦うとかあの政治家の言葉を信じようとかいった心理的合理化があったに違いない。政策決定は常に個人の心情を紡いで国家的意思に辿り着く。その過程の緊張感を伴う思索の結実である。
 大攘夷論の二重読みに触れて立ち止まり考え込む。友人は言う。「コロナ騒ぎで、残り人生の2年分を無駄にした。来年は早くコロナ騒ぎが収束して、あちこち色々行ってみたいものだ。」
 朋有遠方より来る。亦た楽しからずや。

(注)吉本隆明「良寛」、(株)春秋社、1992 年2 月

(執筆:元杉昭男)