日々是総合政策No.99

累進性・逆進性と税収の安定性

 累進所得税は所得Yに占める税Tの割合、すなわち、平均税率T/YがYの高いほど上昇する税でした。このことは、累進所得税においては、
 ΔT/ΔY >T/Y (1)
の成立を意味します。左辺はYが1円変化した時にTがどれだけ変化するかを示し、限界(所得)税率と呼びます。累進所得税では限界税率>平均税率となります。その理由は、一般に平均が増加するためには限界が平均を上回る必要があるからです。たとえば4科目受験した時点での平均得点を80点とします。もう1科目受験した後、すなわち5科目を受験した時点での平均得点が80点を超えるためには、5番目の科目の得点(限界)が80点(平均)を超えなければなりません。
 さて(1)から、
 ΔT/T >ΔY/Y (2)
が成立します。なお、ΔTとΔYがマイナスだと(2)は変化率の絶対値の大小を表します。
いま、Yを一国の国内所得、Tを一国の累進所得税収と定義しなおすと、(2)は所得税収の変化率>国内所得の変化率を示します。経済成長やインフレによりYが増加するとそれだけでも税収が増加するのに、平均税率も上昇するのでTの増加率>Yの増加率となります。逆にデフレや不況のためYが減少すると、Yの減少に平均税率の低下が加わりTの減少率>Yの減少率となります。つまり累進所得税は安定的な税収確保が苦手なのです。
 では、所得に対して逆進的な消費税はどうか?逆進的だとT/YがYの増加とともに低下するので、(1)の不等号が逆になり(2)も
 ΔT/T <ΔY/Y (3)
と変り、不況期の消費税収の減少率<Yの減少率となります。消費税が逆進的になるのは、所得の高低にかかわらず必要な基礎消費があるからです。よって、Yが減少する不況期でも、Yに依存する消費に対する税だけが減少するため(3)が成立します。基礎消費への税が税収確保に貢献するのです。理論的には消費税は不況に強い税です。消費税のこの長所は福祉国家にとって重要です。社会保障は不況を理由に大幅には減額できないからです。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.98

精神的備蓄-黒川和美先生の思い出-

 霞が関中がうなされたPPBS(注)の熱も冷めた頃、農林水産省の担当部署であるシステム分析室で、法政大学助手だった黒川先生と知り合った。当時の農林水産省はコメの生産調整、政府買上げ米価引上げ、経営規模拡大の行き詰まりを抱え、日々批判を受けていた。私は灌漑などの土木事業を専門とする技術官僚(技官)で、国の助成による灌漑事業などへの影響を心配したが、先輩諸氏からは「農業は大切だ」位しか返ってこない。先生の公共経済学の視点は新鮮だった。
 「アフリカ東岸で使われている“スワヒリ語”で話してもダメだ。広く理解されるには“英語”でないと通じない。」と言われたことがある。霞が関(広く国民)の“英語”は法学や経済学ではないか。自分のライフワークの根源を知る旅には“英語”の習得が必要だ。思い立って、黒川先生を講師に半日出勤だった土曜日の午後に若手10人程度が集まって1回1人1000円会費で経済学の勉強を始めた。先生が素人質問に丁寧に答えられるので、毎回2時間が4時間になり、さらにビールを飲みながら役所の会議室で夜遅くまで続いた。雑誌への投稿や講演もお願いして、“英語”教育をして頂いた。
 そんな中で、聞きかじりの理論を借用したつもりで、「日本人は国際水準と比較して常に高価なコメを買っているので、もし国際市況が悪化してもコメを買うだけの心構えがすでに出来ている。一種の精神的備蓄ではないか。」と主張したら、先生は雑誌に紹介して「日本が高価格に対して最も精神的弾力性が高い」と解説し、長期的視点で別の視点から考える大切さを説いた。後日、各省庁の集まる会議で先生が精神的備蓄論を紹介したら、皆がその通りと云ったそうである。霞が関の役人は常に社会的政治的な安定を考えている。
 それから間もなくして第2次臨時行政調査会による行政の徹底的な見直しが始まった。あの時のメンバーが呼び出された。黒川学校で習った公共経済学を“英語”だと信じて、批判に対する反論も自己批判もした。あれから40年。黒川学校は私の役人人生で“精神的備蓄”だったのかも知れない。

(注)planning-programming-budgeting systemの略。1960年代に米国で採用された財政の管理を科学的にして限られた予算で最も効率よく目的を達成するための制度である。

(執筆:元杉昭男)

日々是総合政策No.97

地方創生の現場から(下)

 前回のコラムでは、第2期の総合戦略の策定作業が、現在進行中であることを説明しました。今回は「地方版人口ビジョン」に絞って、課題を述べたいと思います。
 長期的な人口増減は、出産可能な年齢の女性数に大きく影響を受けます。仮に出生率が高くても若年女性が地域外へ流出してしまえば、地域内で生まれてくる子どもは減少するからです。日本創生会議が2014年に発表した「消滅可能性都市」とは、今後30年間で20-39歳女性人口が半分以上減少する自治体のことです(注1)。20-39歳女性が注目される理由は、実際に95%程度の子どもがこの年齢の女性から生まれているからです。出生率が1.4と低く、20-39歳になる頃までに3割程度の人口が地域外に流出すれば、20-39歳の女性人口は親世代の半分程度になります。消滅可能性都市とは、まさにこのような自治体が想定されており、全自治体の「半分」が該当するとされたのです。
 第1期の「地方人口ビジョン」に示された人口の「将来展望」をみると、将来の総人口をより高く維持することが重視されたことがわかります。一方で、一部の先進的な自治体を除いて、将来の若年女性人口は完全にブラックボックスになっています。
 各自治体が将来人口を推計する場合には、将来の出生率と社会増減数の前提を自ら置く必要があります。将来の総人口を高く維持しようとすれば、必ず無理な前提が置かれ、そのしわ寄せが特定の年齢層の人口に不自然な形で及びます。無理な前提で、自治体の将来人口を実際に推計してみると、「将来展望」が実現した場合、現状よりも将来のほうが若年女性数も出生数も多くなります。このことから、多くの自治体の「将来展望」が実態からかけ離れたまま見過ごされ、形骸化していることが容易に想像できます。
 人口対策は、今日それを担う人たちの多くが2040年には責任を負う立場にないため、後回しにされがちです。2040年に責任ある立場にいる今日の若者の多くが、政治にも地域の未来にも関心がないことがこれに拍車をかけていると感じます。地域の現場で抱く懸念は、このように地域の人々によって人口対策が形骸化されてしまうと、地域で芽吹いた新しい動きまで台無しにされるのではないか、ということです。今日の行動が地域の将来を決めます。若い人たちにも将来への投資を期待したいと思います。

(注1)日本創生会議「ストップ少子化・地方元気戦略」(閲覧日:2019年10月31日)

(執筆:鷲見英司)

日々是総合政策No.96

民主主義のソーシャルデザイン:権力の源泉

 今週(11月20日)に、安倍晋三首相の「通算」の在職日数が2887日となり、これまで憲政史上最長の通算在職日数であった桂太郎氏を抜きました。「通算」の在職日数なので、2006年9月から2007年9月までの第1次安倍政権の在職日数も含めた日数ですが、「憲政史上最長」という記録は、安倍政権の大きなレガシー(遺産)となり得ると言えます。ちなみに、「連続」の在職日数では、安倍首相の大叔父である佐藤栄作氏が持つ2798日が最長で、安倍首相が、この記録を塗り替えるのは、来年の8月24日、東京パラリンピック開会式(8月25日)の前日になります。
 ここで「安倍首相は、なぜ、これだけの長期政権を維持することができているのか」という疑問を検証することは、統治論としても、次代の政治家、後世の政治家にとっても、非常に有意義な示唆を提供することになるでしょう。
 その評価は分かれるところですが、結論から言えば、権力の行使を通じて、永田町と霞が関の両方をうまくガバナンスしてきた、ということに尽きるのではないでしょうか。
 選挙制度が中選挙区制から小選挙区制に移行する中で、永田町における権力の大きな源泉となったものとして、党の「公認権」が挙げられます。もちろん、無所属でも、小選挙区で当選することができる強い候補者もいます。しかし、多くの候補者は、党からの公認を得られず、その支援も無く、さらに言えば、党の公認候補が対抗馬として擁立されてしまえば、小選挙区で当選することは難しくなります。党の「公認」を得るためには、党の方針に逆らうことができません。これにより、「党高閥低」を生み出し、派閥の力を弱めることにつながりました。
 一方、権力の源泉としては、「公認権」は、首相が持つ実質的な「解散権」とセットになることが必要不可欠です。それをセットで初めて使ったのが、小泉純一郎元首相の下での「郵政解散」であったと言えます。
 「いつ解散するかわからない」。安倍首相が憲法改正を政権のレガシーとするのであれば、来年のオリンピック・パラリンピックを待たずに、衆議院を解散し、総選挙に打って出る可能性はゼロではありません。

(執筆:矢尾板俊平)

日々是総合政策No.95

“It’s the economy, stupid!”

 The above is the phrase Bill Clinton used in the presidential campaign against W.H. Bush in 1992. Clinton’s campaign advantageously used the economic recession prevailing then in the United States. He succeeded in winning the election. Since then, “it’s something, stupid!” has become part of American political culture. “It’s the deficit, stupid,” for instance.
 This episode indicates the reality of a clear connection between politics and the economy, which is the topic of this column. Since public policy is produced through political processes, for a better understanding of public policy, it is crucial to understand the relationship between the economy and politics. The PPE programs in England and America emphasize such an approach. PPE represents philosophy, politics and economics. I wish to follow such an approach in my columns.
 History of political economy shows that economic activities influence political actions. F.D. Roosevelt‘s “New Deal” in the 1930s was in response to the Great Depression. In the twenty first century, the governments in advanced economies will exert greater efforts to protect the environment and to provide even more government health care benefits to its citizens.
 On the other hand, one cannot study economic policy without taking into account political influences, and one cannot completely understand politics without comprehending economic influences. Government policies on unemployment compensation, the minimum wage, health care, and the level of national debt are all the result of political decisions that affect the economy. Ask yourself why Japan has a higher national debt than the U.S. or the Republic of Korea.
 Then, how are political decisions made? Public choice or benevolent despot? In democracies, government decisions are made by some collective decision-making procedure; usually by elected representatives. The purpose of public choice and public finance is to understand how voters’ choices are translated into economic effects. One example in public choice is the median voter theorem in majority rules. However, our understanding of one-party political systems, such as in China, is poor.
 Society consists of conflicting interests. And the result of public choice better be optimal or efficient in the Pareto sense. (See No.1 in this forum for Pareto efficiency.) One impediment to efficient decision-making is that policy makers may have no good way of measuring the citizens’ demand for the public good or government service. They may not have enough information to do so. The government sector uses a huge portion of the nation’s resources. Even in a market-oriented country like the United States, the government sector is one third of GDP. Considering the importance of the size, voters’ understanding of the political issue is crucial for an efficient outcome.
 Politics involves complex exchanges that compound already complicated market exchanges. While study of the market is concerned with efficiency, the goals of public policy in a democratic society include equity as well as efficiency. Most people put a high value on fairness. As a result, a policy may move away from an optimum. Public policy has to answer questions like: what is each person’s fair share of the tax burden? However, what is fair is a value judgment. In this effort, people first should agree on the underlying facts. Then there is some hope. Although there may be conflicting interests, there are many shared values on which the populace can find common ground.

(執筆:Yong Yoon)

日々是総合政策No.94

「公」に対応すべきこと:東京2020と公共交通機関の多言語対応から考える

 訪日外国人旅行者数が2018年に初めて3000万人を突破し、東京でオリンピックを迎える2020年にはさらに多くの国や地域から大勢の外国人が日本を訪れると予想されている。そのため公共交通機関等には多言語対応が求められ、たとえば東京メトロの車内表示は4か国語(日・英・中・韓)で対応している(Tokyo Metro News Letter 2019年3月 第73号)。
 この背景には2014年に観光庁が公表した「観光立国実現に向けた多言語対応の改善・強化のためのガイドライン」がある。駅名等の表示は「日本語・英語」の併記を基本ルールとしつつ、英語以外の表記の必要性が高い場合は「中国語・韓国語・その他」の表示を求めている。また、スクロール・切替等により外国語を併記する際は「伝えるべき情報量、外国人の利用実態等を考慮し、適切な内容・頻度・言語でこれを実施することが望ましい」と規定している。
 東京メトロの車内表示は次の停車駅が日・英・中・韓の順に約3秒ずつ表示され、同様の案内は国内の鉄道でよく見かけるようになった。この問題は、表示言語がわからない乗客には情報が伝わらず、理解できる言語が表示されるまで待たなければならないことだ。先の場合、1つの言語しかわからない人は10秒程度待つことを強いられる。その間に電車を降り損ねるかもしれない。
経済学では待つことにはコストが伴うと考える。機会費用とは、あることを選択した費用はそれを選択しなかった場合に得られたはずの価値に等しい、という概念だ。車内表示の場合、乗客が表示言語を選択しているわけではなく事業者による選択を強いられているので、機会損失や逸失利益と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。多言語対応によって便益を得る人がいる一方で、私たちはこうしたコストを強いられているといえる。
 車内表示は一つの画面に表示できる情報量に限りがあり、希少資源の配分の問題に直面する。だが、多言語対応に頼らずとも駅ナンバリングがあるのだし、Google翻訳ならスマートフォンをかざせば瞬時に翻訳できる。「公」に対応すべきことは同時に多数に便益を提供することであり、あとは個々の対応に任せれば良いのである。基本ルールに立ち返り、表示は日本語と英語の併記だけに戻すべきだろう。

(執筆:川瀬晃弘)

日々是総合政策No.93

産業構造2

 こんにちは、ふたたび池上です。第7回は、経済発展に伴い経済の中心が農業から工業にシフトする、工業が経済発展を牽引するルイス・モデルのお話でした。今回は、それでも、農業も重要です、というお話です。
 ルイス・モデルは、外国との輸出入のない閉鎖(鎖国)経済のモデルなので、工業の発展に伴い、労働者が農業から工業に移動すると、農業生産が縮小、食料が不足するという状態が続きます。その状態は、農業の労働者の数が減少し、農業が労働者を引き止めるために、工業の賃金と同じ額の賃金をオファーし始めるまで続きます。
 皆さんの中には、そもそも、なぜ、農業は、労働者を引き止めるようために、そのような賃金を経済発展の最初からオファーしないのかと思うかも知れません。その理由は、ルイス・モデルが、農業は、市場の原理で賃金が決まるのではなく、伝統的な村社会の原理で賃金が決まり、かつ、伝統的に続いてきた、かつての収穫量をかつての労働者の数で分け合った額に等しい、伝統的な賃金で動かないと仮定しているからです。
 さて、なぜ、工業だけでなく農業も重要なのかですが、農業が発展すると、上記の食料不足状態の期間が短く、もしくは、なくなるからです。農業が発展すると、経済発展の初期に、食料が不足し始める時期が遅く(後回しに)なります。また、農業が発展すると、経済発展の後期に、農業が労働者を引き止めるために、工業の賃金と同じ額の賃金をオファーし始める時期が早まります。これら2つの時期にはさまれた、経済発展の中期に食料が不足する期間が短く、もしくは、なくなるのです。
 この結果は、経済発展につれて経済の中心が農業から工業に移動する、経済発展が工業発展に牽引されるからといって、農業発展をおろそかにしてはいけないことを示しています。ルイス・モデルでは、経済は農業と工業の2部門でしたが、現実の途上国の経済には、工業という言葉から推測できる大きな工場における安定した職ではなく、個人レベルのとても小規模で不安定な職に従事する労働者がたくさんいます。次回はこのお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.92

予防医療(下)

 前回(No.70)は労働者の予防医療を取り上げ、その意義を考えました。今回はこれまでの経緯を概観して、今後の課題と方向を整理します。
 一般に予防医療は、一次予防としての健康リスク・発症率の低減、二次予防としての重症化・長期入院の抑制を指しています。前者の方法は定期健診と健康管理・保健指導、後者の方法は検診による早期発見・早期治療が基本になります。労働者の予防医療の一例として、1988年の「トータル・ヘルスプロモーション・プラン」があげられ、主な目的は、一次予防による「心とからだの健康づくり」にあります。
 近年では、これを生産性の維持・向上と医療費の削減にも応用しようとする「健康経営」が提唱され、2009年頃より大企業を中心に導入されています(注1)。健康経営は、アメリカの「Health and Productivity Management」が日本に取り入れられたものとされ、民間のプログラムとして多くの企業に浸透することが期待されています(注2)。今後の課題として、主に次の3つがあげられます。
第1は、労働者の主体的参加と行動の促進策です。健康経営の基本的方法は「企業と保険者のコラボヘルス」にあるとされますが、IT(情報技術)の活用等による労働者参加型の予防プログラムが重要になります。また、成果向上のための経済的誘因の導入が有用とされます。
 第2は、一次予防と二次予防の連携です。前者の成果(健康リスク・発症率の低減)は後者の成果(重症化・長期入院の抑制)につながり、これらは生産性や医療費にも影響を与えます。このためには、一次予防と二次予防(あるいは健康経営と医療制度)の連携により、早期発見・早期治療を強化する政策が必要になります。
 第3は、長期的予防プログラムの導入です。健康経営により期待される成果の一つに健康寿命の延伸があげられ、このためには就労期の予防の取り組みが高齢期にも継続される必要があります。これについては、国民健康保険等での保健事業の強化やセルフケアの促進それぞれのプログラムが重要になります(注3)。
 前回と今回は労働者の予防医療を基本にその意義、経緯と課題を整理しました。次回以降は、医療制度の概要と改革の経緯を整理した上で、各人の生涯の予防医療の意義と方向を考えます。

(注1)「健康経営」は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。
(注2)「Health and Productivity Management」の概要については次の2つが参考になりますが、企業の業種や労働者の職種あるいは保険団体によりプログラムの内容は多様です。
ACOEM GUIDANCE STATEMENT(2009)“Healthy Workforce/Healthy Economy:The Role of Health, Productivity, and Disability Management in Addressing the Nation’s Health Care Crisis”, Journal of Occupational & Environmental Medicine. Vol.51, No.1, pp.114-119.
Hymel, P., R, Loeppke. and C, Baase, et al.(2011)“Workplace Health Protection and Promotion A New Pathway for a Healthier—and Safer—Workforce”, Journal of Occupational & Environmental Medicine. Vol.53, No.6, pp.695-702.
(注3)アメリカでは、以上の3つの課題に関連して参考になる事例がありますが、これについては別の機会に取り上げます。

(執筆:安部雅仁)

日々是総合政策No.91

地方創生の現場から(上)

 2015年度からスタートした5か年の「地方創生」の取り組み(総合戦略)は、今年度で最終年を迎えています。そして、今まさに各地方自治体は来年度からスタートする第2期の総合戦略を練っているところです。私自身も複数の自治体で総合戦略推進会議という外部機関等でこの過程に携わっています。本コラムでは2回に分けて、「地方創生」の現場で感じた課題について述べたいと思います。
 「地方創生」は「まち・ひと・しごと創生法」(2014年11月公布)を根拠にしており、そのもとで、国は2060年に1億人程度の人口を確保する展望を示した「長期ビジョン」と2015年度から19年度の人口対策を示した「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定し、都道府県と市区町村も同様に「地方人口ビジョン」と「地方版総合戦略」を策定しました。
 「地方人口ビジョン」は国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口をベースに、各自治体が独自に推計した2040年頃の(「将来展望」と呼ばれる)将来人口を示したもので、「地方版総合戦略」は、「将来展望」を実現するために、5年間で実施する出産・子育てや移住・定住等の戦略とその目標を示したものです。
地方創生の結果はどうなったのでしょうか。残念ながら、国と地方の総合戦略は全体としてみると惨憺たる結果になっています。出生数は減少の一途を辿り、地方から東京圏への人口流出は減少するどころかむしろ増えています。
 その一方で、自治体の現場に足を運ぶと、この5年間で起きた数字に表れていない質的な変化を確認することができます。例えば、ある地域では若い移住者の存在が目立つようになりました。彼らは仕事がないといわれる地方において、地域課題解決型のビジネスモデルを創り出し、行政との連携を始めています。また、地域課題解決のための若者たちの自主的な活動が生まれた地域では、若者のアイディアが行政の事業に採用されています。反対に、外国人の旅行者や就業者が増えたことで、雇用面や生活面での新たな地域課題も発生しています。
 各自治体の総合戦略の結果は、人口ビジョンとともに、ホームページで公開されています。他の自治体と比較すれば、人口問題に取り組む姿勢もわかるはずです。読者の皆さんにもぜひ確認していただきたいと思います。

(執筆:鷲見英司)

日々是総合政策No.90

相手の立場に立って考える(1)

 相手の立場に立って考えてみると、見えなかったことが見えてくることがある。これはかなり汎用性のある考え方であり、きわめて経済学的な見方でもある。
 たとえば、2000年代前半に、日本の携帯電話がなぜ中国では売れずに撤退することになったのかを考えてみよう。2005年3月末から1年間の予定で上海にて在外研究をすることになった私は、当時、上海の渋谷と言われた徐家匯(xujiahui)の近代的高層ビルの2階か3階のフロアにあった携帯売り場に行った。野球場のような広さの売り場では通信機器(電話機)や情報機器(コンピュータ)が売られ、その一角に携帯電話売り場があった。
 売り場に行くと、数ある携帯電話の中で、日本メーカーの携帯電話は高機能・高品質・高級品であった。値段は最低でも2000元(3万円前後)以上で、3000~4000元の機種もあった。その価格は、多くの人の月収を上回る金額であった。私の知人も携帯電話を見に行ったが、高くて手が出せず、高根の花と言っていた。
 しかし、韓国製品や中国製品は日本製品の2分の1から3分の1の価格で売られていた。結果として、売り上げの中心が、高額商品でなく、中低額商品であったことは言うまでもない。そのとき、このような高額商品を買うのは誰だろう、どれだけの人がこれを買いたいと思うだろうかと考えてしまった。しかも、高層ビル近くには中古の携帯電話を100~500元で売る店がいくつもあった。
 まだ豊かな人が少なかった当時の上海では、若い人を中心に携帯電話を持つ人が増えていたが、中古の携帯電話を持つ人が多かった。こうした状況をみて、私は、(収入が相対的に少ない)若者が集中する繁華街でなぜ高額・高級品を日系メーカーが販売するのか理解できなかった。買う人間などほとんどいないだろうと思っていたら、案の定、日系メーカーの中国からの撤退報道が伝わってきた。いったい、どのような顔を浮かべて製造し販売しようとしたのか。おそらくは、相手のことなど眼中になかったのだろう。日本の製品・サービスに関するこうした事例は枚挙にいとまがない。

(執筆:谷口洋志)