日々是総合政策No.129

累進所得税と低所得者支援(3)

 前回No.120 では、勤労所得税額控除(EITC: Earning Income Tax Credit)による低所得者支援を取りあげました。今回は低所得者支援に所得税制が使用される背景について考えます。
 さて、低所得層には社会保障政策で対処し、高所得層には累進所得税による高率課税政策を行うという役割分担論があります。今日でもこの分担論は基本的に有意義と考えられますが、では、なぜ低所得者支援にEITCという租税政策が援用されるのでしょうか?
 その大きな理由の一つは、失業などで労働を止め社会保障を受益している人が、「労働に再び参加するコスト」(=以下、Participation Tax Rate=参加税率と記す)が高いことにあります。生活保護手当や失業手当など社会保障を受益している人が再び労働に参加すると、これらの手当が給付されなくなり、さらに所得税や社会保険料などの負担が生じます。
 いま、簡単なかたちで
 参加税率=(勤労復帰による社会保障給付の減少+所得税・社会保険料負担等の増加)÷勤労所得、
 と定義します。

参加税率の国際比較(% 2018年)

(出所)https://stats.oecd.org/viewhtml.aspx?datasetcode=PTR&lang=en 
より作成(最終アクセス2020/2/25)。

 上の表は、子供二人の両親のうち、一人が労働ゼロ、そのパートナーはフルタイムの勤労者で平均賃金の67%を得ており、労働ゼロの親は最低所得保障(生活保護タイプ)を給付されているとし、仮に労働ゼロの親が平均賃金の67%を得る場合の参加税率を示します。
 最低所得保障政策は多くの場合、勤労所得の増加に伴い給付を減額するシステム=差額主義を採用しています。つまり、労働参加すると労働による成果が「給付の減少」という形で取られてしまいます。そこで、経済的自立=労働参加を促す政策として、労働の成果自体を補助するEITCが登場したわけです。
 なお、参加税率を高める要因として、勤労所得税や社会保険料という公的負担も重要です。日本の参加税率の高い原因として社会保険料負担が注目されています。

(執筆 馬場 義久)

日々是総合政策No.128

民主主義のソーシャルデザイン:リスクとクライシスのマネジメント(2)

 もうひとつの言葉、「クライシスマネジメント(危機管理)」についても考えてみましょう。リスクマネジメントが損害が発生する前までの「予防」的な活動であるのに対し、クライシスマネジメントとは、損害が発生した後に行われる「発生した”損害(ダメージ)”をいかに拡大させないか、または、その影響を小さいものとするか」という活動であると言えます。
 例えば、企業が何らかの不祥事を起こしてしまったとします。起きてしまった不祥事は、タイムマシーンが無い限り、不祥事が起きる前に戻って、それを食い止めるということはできません。できることは、その不祥事によって生じる企業の損害(ダメージ)を最小化し、できるだけ早く、その損害(ダメージ)から回復することです。
 これは企業の不祥事に限らず、災害や感染症などによる「危機(クライシス)」に対しても同じことが言えます。クライシスマネジメントにおいて最も重要な活動は「コミュニケーション活動」です。災害や感染症などの「危機」においては、多くの根拠のないデマ(今風に言えば「フェイクニュース」でしょうか)が飛び交い、時に人々の間でパニックが生じます。パニックが増大していけば、その「危機」はさらに拡大し、それによる損害も大きくなり、または新たな「危機」が生じることさえあるかもしれません。
 このような「パニック」を避けるためには、人々が信頼たり得ると考える機関が、人々が冷静に行動することができる「正確な情報」を、適切な「タイミング」で提供することです。例えば、政府であっても「未確認情報」を無暗に提供してしまえば、それにより、混乱やパニックが起きることがあり得ます。
 さらに「コミュニケーション活動」に加え、適切な「意思決定活動」が行われることがクライシスマネジメントの条件となります。適切な「意思決定活動」とは、意思決定される内容それ自体だけではなく、意思決定の「ライン(系統)」が守られることが大切です。「危機時」だからといって、意思決定の「ライン」が崩れることは、組織の崩壊につながりますし、それにより、混乱が増幅する要因となり得ます。
 「船頭多くして船山に登る」ことにならないようにしなければなりません。

(執筆:矢尾板俊平)

日々是総合政策No.127

大阪都構想と公共選択論(下)

 大阪都構想は、大阪市と大阪府の二重行政を解消するために、大阪市を廃止して四つの特別区にし、東京のような都区制度をつくるというものです。現在大阪市にある24の行政区の区長は大阪市長が任命する大阪市職員です。大阪都(法律の関係で名称は大阪府のままとされています)のもとでの特別区区長は選挙で選ばれますし、区議会もできます。住民自治が進むでしょう。現在大阪市が行っている消防や都市計画といった本来都道府県が担う権限は、大阪都にうつります。府と市で別々に行われている水道事業も統一されるでしょう。大阪府には現在33市9町1村の自治体がありますが、これが4区32市9町1村となり、自治体の数も増えます。ただ、4区には都区財政調整制度が残り、この4区は大阪都の中では別格の扱いとなります。他の市町村にはない区への大阪都政府の裁量も残るのです。
 大阪都構想は公共選択論からはどのように評価されるでしょうか。第1に、大阪市を廃止し四つの特別区にすることは、Wagner and Yokoyama (2014)にある単中心主義から多中心主義への移行とみることができ、望ましい。大阪市を民主的な四つの特別区にする大阪都構想は競争的連邦主義を促進するでしょう。
 第2に、大阪府による大阪市の吸収合併となる大阪都構想は、Migué (1997)が指摘する外部性の問題の内部化とみることができ、望ましい。Miguéは上位政府と下位政府が政治競争をすることによって共有地の悲劇が起こることを指摘しました。これは大阪市と大阪府の二重行政をうまく表現しているように思います。意思決定主体を一つにすることによって、この悲劇を回避できます。
 第3に、大阪都全体で見れば、4区に都区財政調整制度を残すのは、多中心主義の観点から望ましくない。Wagner and Yokoyama (2014)の競争的連邦主義は、政府の数を増やすことだけでなく、構成下位政府間の対等な関係を重視します。都区財政調整制度を持つ4区と持たない32市9町1村は、対等でなくなります。他の市町村におろしているが旧大阪市地域だけおろすことができない都道府県業務があるのでしょうか。引き続き考えていきたいと思います。

(執筆:奥井克美)

研究プロジェクト「多文化共生社会の総合政策研究」第3回公開研究会「多文化共生と農業」(2月22日開催)延期のお知らせ

2020年2月21日

研究プロジェクト「多文化共生社会の総合政策研究」第3回公開研究会「多文化共生と農業」(2月22日開催)延期のお知らせ

2月22日の公開研究会は、新型コロナウイルス感染症予防の観点から、報告者ともご相談のうえ延期いたします。今後の日程などは、改めてご案内いたします。

日々是総合政策No.126

民主主義のソーシャルデザイン:リスクとクライシスのマネジメント(1)

 2020年2月20日時点での厚生労働省の発表によると、日本国内における新型コロナウイルス感染症の患者さん(有症状者)は70名(うちチャーター便で帰国された方が10名)となっています。これまでも世界ではSARSやMERSなどの感染症に対応してきた経験があります。約10年前には、鳥インフルエンザの脅威もありました。ここで、リスクマネジメントや危機管理(クライシスマネジメント)について考えておくことにしましょう。
 まず、「リスク」とはどのように考えれば良いのでしょうか。
 自転車に乗った時に歩行者とぶつかってしまったというケースを想像してみてください。相手も自分も怪我をしたり、自分の自転車が壊れたりと、いろいろな損害が発生すると思います。こうした損害を発生させないようにするためには、どうすれば良いでしょうか。答えはシンプルで、事故を発生させなければ良いということになります。ただ不可抗力的な事故もありますから、完全に事故を発生させないというのは困難です。そこで、自転車に乗っている人も、歩行者も、できるだけ「事故が発生させないようにする」、つまり「事故の発生率」を小さくするように安全運転をしたり、注意しながら歩いたりすることでしょう。つまり、リスクとは「事故が起きたときの損害の大きさ」に「事故の発生確率」を掛け合わせた「実際に起こり得る損害の大きさ」であると言えます。リスク管理で行うことは、「事故の発生確率」をできるだけ小さくすることであると言えます。
 人為的な事故や事件、さらには戦争や紛争などは、発生確率を小さくするというリスク管理を行うことは可能です。しかし、今回の感染症や災害など、どうしても人為的にコントロールすることができないリスクや予見が困難なリスクもあります。この「予見可能性」は損害賠償責任の有無の判定に大きな影響を与えます。つまり、「予見できていたのに損害発生を避けるための努力をしていなかった」のか、「そもそも予見できていなかった」のかということは、同じ「損害発生」を避けられなかった状態であっても意味が違うのです。

(執筆:矢尾板俊平)

日々是総合政策No.125

大阪都構想と公共選択論(上)

 大阪都構想は公共選択論からはどのように評価されるでしょうか。今回と次回は、この点について考えてみたいと思います。
 公共選択論は政治の世界も経済学の原理でみていこうと問題提起し、多くの政治の失敗を明らかにしてきました。公共選択論では、政府がリバイアサンという怪獣になって人々を苦しめます。Brennan and Buchanan (1980)は、リバイアサン政府が税収最大化をはかるので課税権の制限を定めた憲法でこれを抑制することを説きますが、連邦主義での政府間競争が憲法の替りとなるといいます。地方政府間で競争が生じ、まずい行政サービスを提供していると、人々はその地を離れていくからです。
 これは地方政府の数が増えて競争する環境が望ましいとの意味を持ちますが、Oates (1985)は、政府の数が増えたからといって税収が減っているといえない、との計量分析結果を提示してBrennan and Buchananの主張に反対しています。Zax (1988)もデータ分析によって、政府の数が増えたからといって財政指標がよくなっているわけではない、と述べています。
 Migué (1997)は、上位政府と下位政府間の競争が過大な公共サービスの提供につながるといいます。Miguéが考える競争は、上位政府政治家と下位政府政治家が政治的利得のために競って共有地の石油を掘る公共事業を行うような状況です。どちらの政治家も自分にとって政治的利得を最大化するだけの公共事業を行いますが、結果として石油資源が枯渇します。政府間競争が望ましくない結果をもたらすとの議論で、注意しておかねばならないと思います。
 Wagner and Yokoyama (2014)は、連邦主義を競争的連邦主義とカルテル連邦主義に分け、前者が「自由」の概念と親和的で望ましいとの規範的な議論を展開しています。前者は対等な下位政府が自然発生的な合意に基づいて形成する多中心主義(polycentrism)を、後者は上位政府が独占的な力を持つ単中心主義(monocentrism)を特徴とします。政府の数を増やすという形だけの連邦主義ではなく、対等な主体が合意に基づく政策形成がしやすい環境をつくることが大切だとの議論です。

(執筆:奥井克美)

(注)参考文献
Brennan, Geoffrey and Buchanan, James (1980), The Power to Tax: Analytical Foundations of a Fiscal Constitution, Cambridge: Cambridge University Press.(深沢実他訳『公共選択の租税理論』文眞堂, 1984年.)
Migué, Jean-Luc (1997), “Public choice in a federal system,“ Public Choice, Vol. 90, pp. 235-254.
Oates, Wallace (1985), “Searching for Leviathan: An Empirical Study,” American Economic Review, Vol. 75, pp: 748-57.
Wagner, Richard E. and Yokoyama, Akira (2014), “Polycentrism, Federalism, and Liberty: A Comparative Systems Perspective,” George Mason University – Department of Economics, Working Paper in Economics, No. 14-10, pp. 1-30.
Zax, Jeffrey (1988), “The Effects of Jurisdiction Types and Numbers on Local Public Finance,” In Fiscal Federalism: Quantitative Studies, edited by Harvey Rosen, Chicago: University of Chicago Press, pp. 79-103.

日々是総合政策No.124

教科書をはみだした「現代社会」の話

 このところ、教科書で学んだ知識だけでは理解できない政策分野が増えています。金融政策がその代表例でしょう。日本銀行が実施している「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」について理解しようと思ったら、日本銀行当座預金(日銀預け金)の残高の三層構造とマイナスの付利について学んだうえで、短期と長期の金融市場(コール市場と国債市場)の仕組みを把握し、さらに短期と長期の金利の間の関係(金利の期間構造)とイールドカーブ(利回り曲線)についての知識を得ることが必要となります。
 金融政策と同じくらいややこしくなっているのは、日本の地方財政です。自治体間に存在する財政力の格差については、地方交付税を通じてその是正が行われることとなっていますが、最近では譲与税を通じた財政調整の役割が高まっています。2008年に創設された地方法人特別税(2019年廃止)も、2019年に創設された特別法人事業税も、地方税である法人事業税の一部を国税化し、譲与税を通じて各自治体に税収を再配分することで、自治体間の財政力格差の是正を図る仕組みとなっています。
 このような仕組みが採用されることになったのは、地方交付税交付金(交付税)の配分を受けている自治体(交付団体)と配分を受けていない自治体(不交付団体)の間の財政力格差の是正が、交付税を通じた従来の財政調整の枠組みによっては行いにくい状況が生じているためです。大都市の自治体に税収が偏在しがちな法人事業税の一部を国税化して譲与税を通じて配分する枠組みを利用すれば、不交付団体も含めた形で自治体間の財政調整を行うことが可能となります。
 一見するとこれらの仕組みは複雑で、なぜもっとシンプルな仕組みにすることができないのかと不思議に思われるかもしれません。でも、このような仕組みは現実の社会に存在する様々な制約条件のもとで、直面する課題を解決しようとする努力の現れでもあります。複雑な制度は複雑な「現代社会」の姿を映し出す鏡なのです。このような複雑さ、ややこしさの理由を考えることも、総合政策を学ぶ際の楽しみのひとつといえるかもしれません。

(執筆:中里透)

日々是総合政策No.123

都区財政調整制度は必要なのか

 都区制度には、都区財政調整制度という仕組みがあります。都区財政制度は特別区間での財政格差を是正する仕組みです。特別区地域の税収の一部を都税として東京都に集め、これを23の特別区に割り振っています。大阪都構想が実現すれば、同様の仕組みが導入されます。今回は、この是非について考えてみたいと思います。
 都道府県や市町村といった地方公共団体の財政格差を是正する仕組みに地方交付税交付金制度があります。政策のために必要な金額(基準財政需要額)から通常時の税収(基準財政収入額)を引いた額を地方公共団体ごとに算出し、中央政府が国税として集めた税収を財源にして各地方公共団体に補填します。各地方公共団体と中央政府との間で行っているこのやりとりを、23の特別区と東京都と間で行っているのが都区財政調整制度です。都税には道府県税と市町村税の両方がありますが、固定資産税など他の市町村では市町村税であるものが都税として東京都に預けられ、これが特別区にそれらの格差を是正するようにして再分配されます。
 少し話が変わりますが、47都道府県と言います。同じ広域自治体であるのになぜ名前が違うのでしょうか。市町村の名前の違いの方は人口に対応していそうです。こちらは、なぜ四つも名前があるのでしょうか。明治政府は倒した幕府の領地の内、重要な地を「府」に、その他の地を「県」としました。さらに、廃藩置県によって諸大名が治めていた藩を廃止し、国土はすべて府県のどれかになりました。北海道の領域にも三県が置かれていましたが、三つもあるのは非効率ということになり、古くからある地名で一つに統一し北海道になりました。東京は首都ということもありますが、東京市と東京府を廃止し、府が市を吸収合併してできたことから東京都となりました。
 東京市にあった区が現在の23の特別区につながっています。都区財政調整制度は、この旧市内での格差をなくすための仕組みです。この制度を持つ杉並区と持たない三鷹市が同じ東京都の中に合って隣り合っている、というのは何かしっくりいかない気がします。2000年の地方自治法の改正によって、東京都の特別区は市町村と対等の基礎自治体となりました。都区財政調整制度はこの対等性を壊しているように思えます。

(執筆:奥井克美)

日々是総合政策No.122

世界にはびこる不正義を許せるか(2):被害者と被害の権利と存在が無視される日本

 18世紀初頭に,イギリスの小説家ダニエル・デフォーは、「ロビンソン・クルーソー」の物語を発表し、クルーソーが無人島に漂流してから自力の生活を経て28年後に帰国するまでを描いた
 その生活が希少な資源を有効に利用し最大限の効用(満足)を得ようとしたかのように読めることから、経済学者は好んでロビンソン・クルーソーの世界を語ってきた。何とかその日暮らしをしてしのいでいるうちに、いろいろなことを考えて生き延びる知恵を身に着けるという点に経済学者は着目するのだが、不思議なことに、クルーソーの生活における孤独でみじめさな面には経済学者は関心がない。
 ところで、デフォーが書いた小説としてほかに『モル・フランダーズ』(岩波文庫)がある。この作品は、波瀾万丈の女性を描いた小説であり、英国女流作家V・ウルフも絶賛した傑作である。この女性は若い時期に不幸な恋愛を経験してから虚栄の結婚生活を送るようになり、中年になってからは窃盗犯として数々の犯罪を実行する。絶対に捕まらない常習犯と噂されたモルだが、最後には捕まり、米国への流刑罪となる。
 物語中には、モルがどのように窃盗を行ったかについて詳細な描写がある。デフォーは、この小説は犯罪を奨励するものでなく、一般人がこれを読んで犯罪防止に努めてほしいという教訓を込めて書いたのだと弁明している。数え切れない窃盗で得た財産を元手に、老後のモルは豊かな生活を送り、宗教心に目覚めていくという結末は、モルの人生の前半よりも後半の意義を説いたものと考えると、デフォーの主張も理解できないわけではない。しかし、被害者が被った苦痛や損害がどれだけ大きいかは、デフォーとモルの関心事ではない。
 この小説を現代の日本人が読んだら、多くの人が面白いと思うことだろう。最後は宗教心に目覚めるという結末に共感を覚える日本人も多いに違いない。しかし、私はそうは思わない。主人公のモルの描き方こそ、今日の日本の病理を表している。つまり、加害者の言い訳ばかりが強調され、被害者の存在や金銭的・物理的・精神的・心理的な被害には無関心だという「病理」だ。

(執筆 谷口洋志)

*本文の後半は、筆者の「あまのじゃくの経済学」『改革者』から一部引用しています。

日々是総合政策No.121

再分配政策(1):最悪の事態に対する備えとしての社会保障制度

 今日の西側先進諸国は社会保障制度を基盤とした福祉国家で、こうした国々では再分配政策の施行が国の重要な役割になっています。再分配政策の背後には、政策決定過程における個々人の再分配政策への政策需要があります(横山, 2018)。
 再分配政策には、個人間・地域間・世代間の経済的格差を是正するための政策だけでなく、最低限の生活保障・賃金保障・医療保障・教育保障などを提供する政策などもあります。皆さんも良く知っている日本国憲法第25条第1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」の規定は、国民に最低限の生活保障をすることを国の責務としています。この規定は、ロールズの正義論(Rawls, 1971)からも正当化することができます。社会におけるすべての個人が、今も将来も自分の置かれるポジションないし境遇については全く判らず無知である一方で自分自身の選択に影響を及ぼす一般的事実についてはすべて知っている「無知のヴェール」のもとに置かれている状況を、ロールズは想定します。
 こうした仮説的な「無知のヴェール」に包まれたもとでは、社会の基本構造や基本ルール(憲法規定)を選択する立憲的選択の段階(立憲段階)において個々人が危険を回避する行動を取るならば、すべての個人は、立憲後に生起する最悪の事態(例えば不慮の事故で稼得能力を喪失し助けてくれる家族や隣人もなく生計を維持できない事態)に自分が陥った場合を考えて最低限の生活保障や所得保障を備えた社会保障制度を用意しておくことに、立憲段階で合意するはずです。これが、マクシミン原則ともいわれるもので、社会の基本構造や基本ルールを選択するときには、選択肢となる基本構造や基本ルールの各々で生起する最悪の事態を比較して、その中で最善の(最もましな)基本構造や基本ルールを選択することが望ましいとする考え方です。
 したがって、立憲後の政府の再分配政策に対する個人の立憲的な政策需要は、自分も陥る可能性がある最悪の事態を想定した危険回避的な個人が自己利益を追求することで説明することができます。これが、再分配政策に対する立憲的な政策需要です。

参考文献
横山彰(2018)「再分配政策の基礎の再考察」『格差と経済政策』(飯島大邦編)、23-45頁、中央大学出版部。
Rawls, J. (1971), A Theory of Justice, Cambridge, Mass.: Harvard University Press. 矢島鈞次監訳『正義論』紀伊國屋書店、1979年。

(執筆:横山彰)