平成の米騒動
コメの生産調整に悩まされてきた農水省にとって、1993年の記録的冷夏によるコメの大凶作はパンデミックに等しい経験だった。政府備蓄米を総て放出しても200万トン以上が不足し、店頭から米が消え、アメリカ産米や中国産米は輸入量が揃わなかったので、タイ政府に頼み焼酎や米菓などの原料として輸入しているインディカ種のコメ(外米)を主食用にも緊急輸入した。
そんな時、岡山市で単身赴任生活をしていた。早朝、国産米を求めて販売店に長蛇の列が見られたが、通勤途中で行列に加わることは出来ない。帰宅時に買おうとしても当然売り切れ、パン売り場に行っても甘い菓子パンしかなく、即席麺を買って帰る。レストランでもパラパラした外米のご飯しかなく、外米に適した炒飯やカレーライスなどを注文する以外にやりようがない。そんな日々が2か月ほど続いた。
東京では高齢者が早朝から米の販売店に並ぶ姿がテレビに写し出された。終戦直後にタンスの中から着物を持ち出して近郊農村ヘヤミ米を買い出しに行った経験者を真冬の店頭に長時間並ばせた。マスコミではヤミ米で大儲けする一部の農家や流通業者も報道されていた。農業団体関係者の中から他の国民と同様に率先して外米を食する者が出てきても良さそうだがなかった。せめて率先して高齢者のいる施設に優先的に国産米を売ることでもできなかったのか。政府は様々な農業助成策を実施している中で、国民参加型農政という言葉が空々しく感じる状況だった。
対照的なのは、1995年の阪神・淡路大震災時の株式会社ダイエーの故中内功社長の対応である。店舗も社員も甚大な被害を受けつつ、政府より早くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達し、便乗値上げを防いだ。「流通業はライフライン」との信念の下、被災店舗前で24時間点灯し続けて営業した。商売人の真骨頂を見て感激した。社会の安定維持への貢献は2011年の東日本大震災でも受け継がれた。
法律で罰則を課しても、補助金・低利融資や税制優遇・課税強化をしても、どんな政策も日常生活を営む人々の社会的文化的特性を無視できない。長期的視点から人々の理解と共感を売る努力が無ければ、政策の実効性は期待できない。さて、コロナ対策はどうだったのだろう。
(執筆:元杉昭男)