続 ミャンマーのこと ビルマのこと
今回の政変を掘り下げたい。市民レベルでは、タイのようにタクシン派と反タクシン派といった分裂はなく、連邦選挙結果を見ても、ほとんどがアウン・サン・スーチー派と言ってよい。とすれば、国軍内に政変に至る要因があったのだが、その主張する連邦議会選挙の不正とは思えない。先ず次の背景を確認したい。①軍政下の2008年に制定された現憲法では、連邦議会の1/4を国軍に割り当てられ、憲法改正には3/4以上の賛成が必要で、地位は実質守られている。②優秀と言われる将校と40万人を超える兵士がおり、直接経営する国営企業とその系列会社や緊密な民間企業があり、鉱物・宝石採掘をはじめ広範囲な業種に関係している。
その上で3つの政変の要因が語られている。①2015年連邦選挙で国軍支持政党が大敗しスーチー政権が成立した時から、国軍幹部が憲法改正による権力と利権の喪失を恐れて計画した。②ミン・アウン・フライン国軍総司令官が個人的な野心として権力基盤の確立や大統領就任を狙った(クーデター直後に軍司令撤廃し自身の65歳定年を回避した)。③国軍総司令官がロヒンギャの虐殺に関しICJ(国際司法裁判所)の刑事訴追を逃れるために大統領就任を狙った。
民主化の進展とともに、国軍は少数民族との和解進展、政権離脱による政府役職給の喪失、憲法改正と利権縮小の懸念の中で、昨年の選挙に惨敗した。つい明治維新後の勝海舟を思い浮かべてしまった。海舟の余命は、旧幕府勢力の暴発防止、幕臣への経済的支援、生活苦や不平不満訴えの処理に尽きる。茶の生産など産業振興に努め、人材不足の新政府に有能な旧幕臣の登用を促すため自らも新政府の官職に就いた。旧幕臣の移住した静岡で、数種の小銭を入れた紙袋を常に手元に苦情聞き、その価値を高めるためにわざわざ出掛けて手渡したという。
開明派もいたという国軍の中で何が起きたか。敗軍の将の生き方は歴史の1ページでは済まない。
(参考引用文献)
永杉豊「ミャンマー危機」、扶桑社新書、2021年7月
テウインアウン「日本在住17年目のミャンマー人が見たクーデター 第2回 なぜクーデターがおきた?」、ミャンマージャポンON LINE、2021年7月
半藤一利「それからの海舟」(ちくま文庫)、筑摩書房、2008年6月
(執筆:元杉昭男)