日々是総合政策No.89

「信用乗車」の公共政策(下)

 「車の通行がない場合でも信号を守る」という日本人の習性は『交通道徳』として語られ、日本人が幼児期から身に着けた規範であるとされる。もっとも、規範破りの事例は交通ルールに限らず見受けられるので、必ずしも国民性に根差しているとは言えない。
無賃乗車などズルをしないようにするには、qかfを大きくする必要がある。鉄道運輸規定第19条によれば、「有効の乗車券を所持せずして乗車し又は乗車券の検査を拒み若は取集の際之を渡さざる者」に対しては2倍以内の割増運賃を請求できる。単純に考えればf=2×料金なので、ズルをする条件はq<0.5ということになる。つまり、3回に1回しかズルがばれないと期待されるときは、ズルが有利になるのである。いわば、日本の法律は、「不信用乗車」のシステムが前提であったと考えられる。
 「不信用」を前提に規範云々を語ることはできないが、そもそも「信用乗車」がより望まれる理由は何であろうか。「信用乗車」のメリットは、乗降の利便性が増す、交通遅延が減少する、モニタリング費用が抑制できる、等が挙げられる。「信用乗車」システムのもとで犯罪者をつくらないようにするためには、fかqを十分に高くする必要がある。日本では「割増運賃」が欧米に比して極端に低く設定されており、不正乗車に対して十分な抑止力を持たないことが指摘されている。このため、「信用乗車」システムを受け入れるためには、「割増運賃」をより高く設定しておく必要がある。法的、歴史的観点からこの問題を取り上げた西川(2007)は、この施策の遂行は実際的に困難であるとしながらも、今後の自治体の政策や技術的問題解決の方策の可能性を指摘している。
 車両の重層化、多連結化が進む中で、より乗降を効率的にするために「信用乗車」システムの必要性が増している。もし、法的に対応することが困難であれば、道路と同じように運賃無料とするか、モニタリングの成功確率を引き上げるしかない。このためには、乗降時のチェックを厳格化する自動化の技術導入が必要となる。しかし、これは事実上「不信用乗車」システムにすることに他ならないので、「信用乗車」のシステムを目指す方向での公共政策は、結局は、「不信用乗車」を目指す政策であることになる。

(執筆:薮田雅弘)

参考文献
 宇都宮浄人(2011)「海外のLRTの現状とわが国の課題」『国際交通安全学会誌』,Vol.43,No.2,pp.155-162.
 西川健(2007)「信用乗車方式と割増運賃制度について」『運輸政策研究』,Vol.10, No.2,pp.2-6.

日々是総合政策No.88

代議制民主主義:投票と棄権

 代議制民主主義の基礎は選挙における有権者の投票にありますが、すべての有権者が投票するわけではありません。選挙で投票せず棄権する有権者もいます。そもそも、有権者はなぜ投票するのでしょうか。
 有権者は、自分が棄権せず投票することから得られる期待便益が正であれば投票すると考えられます。これは、合理的投票者の仮説で、次のような式で表されます。
         pB – C + D > 0
 ここで、p は自分の投票が自分の望む選挙結果になるかどうかを左右することになると思える主観的確率、Bは自分が望んだ選挙結果になったときに得られる便益、Cは投票費用、Dは投票行為それ自体から得られる便益を示しています。
 不等式の左辺の第1項(pB)は、選挙結果に影響を及ぼす手段としての投票がもたらす便益で、投票の「手段としての便益」といわれます。これに対し、左辺の第3項(D)は、選挙結果に関係なく、選好する候補者や政党への支持表明をする満足や、市民としての義務の履行や民主主義システムの維持への貢献から得られる満足から生ずる主観的便益で、投票の「表現としての便益」といわれています。また、投票費用(C)は、投票に行くために犠牲にしなければならない費用で、投票に行くための交通費だけではなく、投票に行くために仕事や音楽鑑賞やスポーツなどで得られたであろう便益を犠牲にすることによる機会費用を含みます。
 有権者にとっては、自分の1票が選挙結果を左右して1票を投ずることで自分の望む選挙結果になるような状況は皆無だったり(p≈0)、どの候補者や政党でもほとんど違いがなかったり(B≈0)するので、「手段としての投票便益」は皆無になるのが普通です(pB≈0)。そこで、有権者は、投票行為それ自体から得られる便益が投票費用を上回る(D>C)ならば投票しますが、逆ならば棄権します。ここに棄権の原因があるのですが、棄権することは良くないことですか。考えてみてください。
 もし棄権が良くないことだとしたら、皆さんは、どうすれば棄権を減らすことができると思いますか。例えば、インターネット投票の導入や、棄権した人にペナルティーを科すことはどうでしょうか。あるいは、選挙の大切さを訴える社会教育を行うことはどうでしょうか。考えてみてください。

(執筆:横山彰)

日々是総合政策No.87

「これは国家公務員倫理法で受取れません!」

 最近NHKで放映された「これは経費で落ちません!」は、サラリーマンにとって身につまされるドラマだった。私の役人人生では国家公務員倫理法に困惑した。情報収集のために必要な会食禁止も困るのだが物品の贈与受取り禁止でも苦労した。ある地方農政局長は視察先で農村の女性達が地域活性化のために手作りした饅頭の受取りを拒み、女性達の涙を誘ったという話まで伝わってきた。
 農林水産省事業で農地を整備していたキャベツの大産地から、キャベツの詰まった段ボール20箱位が霞が関の私の課に贈られてきた。毎年のことなのだが、在任中は法の施行直後だった。生ものだし宅急便で段ボール箱を送り返すのも大変だ。折角の農家の方々の心情を思い遣ると「返却!」とは言えず、廊下に積上げられた段ボール箱を前に、課長の私が全責任を取ることにして受取った。「ところで、このキャベツどうするの?」と課長補佐に聞いたら、「毎年、執務室内でバーベキュウー・パーティーして、残りは家に持ち帰ります」と言って、「でも今年は肉が贈られてきませんが・・・」と付け加えた。結局、私の負担で40人程の課員の牛肉を買う羽目になった。
 地方農政局長の時に畜産流通施設の竣工式に出席したが、帰り際に骨壺位の箱と折詰の弁当を渡された。箱の中身が1万円以上なら受取れない。弁当は3千円以下ならOKと頭を巡らせた。弁当は大丈夫だろう。包装紙に確かビトンと書いてあった。危ない。しかし、フーテンの虎さんのような風体の方が「局長!」と凄みのある声で渡されたので、怯んでしまった。
 役所に戻り、弁当は若い女性私書に渡し、すぐに部長以上の関係者を集めた。「ルイ・ヴィトン製かも知れない、包装紙を破らずすぐに返却を」とか「地元との関係から目を瞑って局長室に飾っておく」とかまとまらない。結局、私の責任で包装紙を取り外した。蚊取り線香用の豚の素焼置物で、備前焼の豚をビトンとしたらしい。とても1万円に届かない。こうして緊急会議は解散した。秋の昼下がり、「局長!とても美味しいお弁当でした」という軽やかな声を背に、局長室の置物となった豚がほほ笑んでいた。

 (執筆:元杉昭男)

日々是総合政策No.86

大学研究所が核となる地域振興・地方創生に思う:先端研と鶴岡サイエンスパーク

 本学の事例で恐縮だが、2001年に山形県鶴岡市に開設された慶應義塾大学先端生命科学研究所(以下、先端研)、及び先端研を中心とした鶴岡サイエンスパークをご紹介したい。
 先端研の立ち上げから今日まで、18年間所長として研究所運営の中心的役割を担ってきた冨田勝環境情報学部教授によれば、当初は少なからぬ鶴岡市民が、税金を投入して先端研の誘致を行う事に批判的であったが、当時の富塚陽一市長は、短期的な地元貢献や経済効果ではなく、サイエンスの領域で世界的な成果を上げる事を期待し、その事により市の文化的な価値が高まる事を目指したとの事である。そしてそうした思いに応えるかの如く、次々と先端研発のバイオベンチャー企業が立ち上がった。メタボローム解析受託事業のヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ株式会社(2013年東証マザーズ上場)、世界に先駆けてクモ糸事業を展開したSpiber株式会社、唾液を用いた癌の早期発見を事業化する株式会社サリバテック、ヒトの便から腸内環境に基づき健康評価、健康維持、疾病予防の方法を開発する株式会社メタジェン等であり、こうして先端研を中心とした鶴岡サイエンスパークが形成されていったのである。
 ところで、シルバー民主主義の弊害の是正等、将来世代の視点を取り入れる必要がある諸課題に対して、フューチャー・デザインを主唱する実験経済学の第一人者、西條辰義教授率いる高知工科大学の研究グループが、大阪府吹田市の住民を集めて2050年の将来プランを考えてもらう際に、「仮想将来世代」を設ける事に効果があるかどうか調べる為の討論型実験を行った。こうした研究で分かった事は何かというと、元々人間には将来世代の事を考えて、社会的な意思決定に「将来世代の意思(と思われるもの)」を反映させられる高い能力が備わっているという事なのである。
 鶴岡の地域振興の核になっているのが、民間ディベロッパーでも地方自治体でもない、より長期的な視点に立てる先端研という大学の研究機関である事と共に、地域振興、地方創生の為に共に手を携える自治体が短期的な成果を求めず、将来世代の為に何をなすべきかを考える覚悟を持つ事が非常に重要であった事は、実験で得られた結果の正しさの実例を示したという意味で大きな意義があるのではないだろうか。

(執筆:小澤太郎)

日々是総合政策No.85

累進所得税のタイプ(2)

 前回No.71では限界税率一定の累進所得税制を紹介しました。それは
 T= t(Y-E) (1) でした。
 Tは税額、Yは所得,tは税率, Eは控除です。tとEは一定です。日本の地方所得税ではt=0.1です。
 累進所得税制の第二のタイプは、tが一定ではなく、課税所得、つまりY-Eが大きくなるほど高いtを採用します。日本の所得税(国税)の場合、下の表のように課税所得の段階を7グループに分け、tは0.05から0.45の値をとります。このようなtを超過累進税率と言います。

(出所)国税庁ホームページ「所得税の税率」に基き、一部表示法を修正。

 限界税率一定型と超過累進税率型を比べると、後者の方が本格的な累進所得税制と言えます。限界税率一定型はtが一定のため、再分配機能に関して二つの限界を持っています。
 一つは、所得Yが高くなるほど比例的負担に近づくことです。(1)は
 T/Y=t(1-E/Y)  となるので、
 Yが高くなるほどE/Yが低下し、T/Y=t、つまり、高い所得の領域で比例所得税に接近します。
 第二は、低所得層に対して高所得層より低いtを適用できないことです。
 興味深いのは日本でもスウェーデンでも、地方政府が限界税率一定型を、国が超過累進税率型を採用している点です。その理由の一つは、所得再分配は地方ではなく国が担うべきという伝統的な国と地方の機能配分論に求められます。
 いま、地方政府が所得税の税率構造を自主的に決定できるとします。そこで地方Aが独自に累進所得税制を採用すると、地方Aの高所得層は高率の税負担を逃れるため累進税制でない地方Bへ移動し、逆にB地方の低所得層は低率の税負担を求めAに流入しかねません。以上の住民移動が生じると、A地方の累進税制は有名無実となります。他方、国が累進所得税を採用しても、同一国内における地域間の住民移動は生じません。租税政策は、税制による納税者の移動可能性を考慮して立案されるべきでしょう。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.84

自治体の多様性とリサイクル政策

 私の家がある地域では、決められたルールに従ってリサイクル物品をごみから分別し、ごみとリサイクル物品をそれぞれ決められた日にステーションに持って行く約束になっている。ステーションは住民らで共同管理されており、半年に一度位の頻度で、その管理を担当している。一回の担当期間は一週間だが、その間に時折困った事態に遭遇することがある。きちんと分別されていないごみやリサイクル物品が回収されずに、そのまま残されているのである。
 きちんと分別されていないごみやリサイクル物品が一旦捨てられてしまうと、それを誰が捨てたのかを確認することはできない。自治体は教育的指導の意味合いもかねて、敢えて分別の不徹底なごみを回収しないのだろうが、分別の不徹底に気づいて後で自分の出したごみを引き取りに来る人ばかりでなく、ステーションの管理者が自治体に連絡をして引き取りに来て貰うようお願いすることもある。結局のところ、リサイクルプログラムが適切に機能するかどうかは、住民が分別活動にどれ位協力してくれるかに依存する。
 自治体の廃棄物の分別状況を調べてみるとそこには大きな差異があることに気づく。燃えるごみと燃えないごみの区別程度しかしていない自治体がある一方で、何と30品目以上にも分けてリサイクル物品を回収している自治体もある。果たして、リサイクルは良いことなんだから、全ての自治体が分別の徹底を目指した方が良いのだろうか。
 ごみの分別には時間が必要なため、どの様なリサイクルプログラムを利用するかを考える際には、自治体に住んでいる住民がどれ位忙しいのか、どれ位厳しい時間制約に面しているのかを考慮しなければならない。例えば、一人暮らしの人は家事を他の家族と共同して行うことができないため、時間制約が強い。従って、一人暮らしの多い自治体では複雑なリサイクルプログラムを導入しない方が良い。導入したところで、結局失敗に終わる。家計の環境政策には住民の時間制約を考慮する必要がある。

(執筆:松本茂)

日々是総合政策No.83

「信用乗車」の公共政策(上)

 普段、何気なく利用している公共交通機関。運輸サービスに対して正当な対価を支払う必要があるのは言うまでもない。路面電車を例に考えよう。日本では、多くの場合、料金を支払ったかどうかは厳密にチェックされる。しかし、私がかつて経験したアムステルダムでは様子が違っていた。トラムと呼ばれる市電では、切符をあらかじめ購入して、乗車時には購入した切符を自分で改札機に通さなければならない。運賃の支払いは、あくまでも自己の責任においてなされるべきであるという考え方である。実際、私が乗っていると、突然どこからかパトカーがやってきて電車に横付けするやいなや、無賃乗車だったと思われる少年が連行されていかれるという事件があった。そのとき思ったことは、このシステムは「犯罪者をつくるシステムだ」ということである。こうした運賃支払いのシステムは「信用乗車」と呼ばれている。
 「信用乗車」は乗客が運賃を適切に支払うことを前提に、万が一ズルをした場合には、一定のペナルティを課そうとするシステムである。他方「信用乗車」でない(これを「不信用乗車」と呼ぼう)システムでは、乗車や降車の機会をとらえてぬかりなく運賃を徴収する。ここで、乗客がズルをしない確率をp(つまりズルをする確率は(1-p))とし、ズルが見破られる確率(モニタリング成功確率)をq、罰金をfとすれば、乗客が支払う運賃の期待値は、p×料金+(1-p)×f×q、と表せる。乗客がズルをしようとするのは、この期待値が料金を下回る(f×q<料金)場合である。先のケースでは、少年は「めったに見つからない(qが小さい)」と考えたか「見つかっても大した罰金ではない(fが小さい)」と考えたかのどちらかであろう。この時、乗客にとってズルをすることが有利になり、結果的に犯罪者がつくられることになる。
 日本人は真面目だから、仮に「信用乗車」システムになってもズルをする人は少ないだろうという意見がある。 実際、富山ライトレールのようにICカードに限って「信用乗車」の形をとっているところもあり、とくに大きな問題は生じていないようである。ズルをせずルールを守る、という行動は日本人の国民性に依拠しているのだろうか。

(執筆:薮田雅弘)

日々是総合政策No.82

政府間関係にとらわれない日韓関係の構築を(下)

 政府間関係の悪化が対韓感情に大きく影響する現象がある一方で、興味深い動きが出ている。それはツイッター上での「#好きです韓国」の広がりである。このハッシュタグは、政治家たちの発言が民間の交流にまで影響してほしくないとの思いで作られたという(注1)。韓国のツイッターユーザーがそれに応答する形で作った「#好きです日本」もある。「#好きです_韓国」では韓国旅行で好意的に声をかけくれたり、重たいスーツケースを持って階段を上ってくれたりなどの優しくしてもらった思い出や、韓国の食や音楽が好きなど、個々人の体験した日韓関係の投稿を多く目にする。彼らにとっての「韓国」は上述したような政府間のものではなく、親切にしてもらった「韓国」、身近な「韓国」である。そして彼らは、そのような「韓国」を大事にしたいと考えているのだ。
 この動きの大切さは、メディアが報道する「韓国」に対して、「体験した韓国」や「自分の知る韓国」を示していることである。どのくらいの人が実際に少女像を見に行ったのか、普段からGSOMIAを意識していたのか、または、近年韓国を訪れたのか。2018年における日本からの訪韓者数は約2,949,000人である(注2)。単純計算で日本の人口の約2.3%が訪韓したことになる。言い換えると、97.7%の人々はここ一年以内に韓国を訪れていない。にもかかわらず最近の韓国について良くないイメージが生まれる(注3)。日々の報道からイメージ上の韓国を作り上げてはいないだろうか。
 「#好きです_韓国」の投稿に見られるような個々人の体験した日韓関係は、政府間関係のそれとは大きく異なる。そこからは、従来の政府間関係によって作られるイメージではない韓国の側面を彼らが大切にしていることが伝わる。さらにこれらの投稿は、韓国を多様な存在にする。政府間関係にとらわれない日韓関係の構築が見られる。

(執筆:深田有子)

(注1)「『日韓関係を諦めたくない』両国のTwitterユーザーがハッシュタグに込めた思い」. https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/hashtag-japan-korea (2019年9月3日アクセス).
(注2)「【図解】日本人出国者数、韓国・台湾・香港への直近10年間をグラフで比較してみた(2018年版)」. https://www.travelvoice.jp/20190307-126690 (2019年9月3日アクセス).
(注3)2019年5月から6月にかけて行われた言論NPOと東アジア研究院の共同世論調査では、韓国に対して「良い印象」を持っているとの回答が20.0%で調査開始以降最低となった。「良くない印象」を持っているとの回答は49.9%である。また、現在の日韓関係を「悪い」と見る日本側の回答は63.5%で、昨年の40.6%から増加した。このように、日本側の韓国に対する良いイメージは低下したが、他方、韓国側の日本に対する良いイメージは向上した。日本に対して「良い印象」を持っているとの回答は31.7%で過去最高となったことは注目に値する。「第7回日韓共同世論調査 日韓世論比較結果」.http://www.genron-npo.net/world/archives/7250.html (2019年9月9日アクセス).

日々是総合政策No.81

民主主義のソーシャルデザイン:「共助」の仕組みと「小さな」デモクラシー

 「地震、雷、火事、親父」という言葉があります。この中で「親父」は、元々は「大山嵐(おおやまじ)」であったという説があります。(真偽のほどはわかりませんが)。ちなみに、「大山嵐」とは、台風や強風を意味します。このような災害に対し、「自分の身をどのように守るのか」ということを、日頃から意識し、考えておく必要があります。
 キーワードとなるのが「自助・共助・公助」という考え方です。「公助」とは、国や自治体の救難・救助活動、復旧・復興における支援などを想像するとわかりやすいかもしれません。一方、「自助」とは、自分や家族が、自分たちで何ができるのか、ということを考え、行動することと言えるでしょう。
 そして、「共助」とは、地域に住む人々がお互いに助け合いながら、何ができるのかということを考え、行動することと言えます。最近では、「近助」という「共助」で考えるよりも、もっと小さな近所関係において、お互いに、どのように助け合いが可能か、ということも議論されることもあります。こうした「共助」や「近助」の考え方を踏まえた地域での防災や減災、災害発生時の助け合い・支え合い仕組みづくりが、重要な課題になっています。
 その問題の背景には、自治会への加入率の減少や地域における防災活動を担う消防団の団員数の減少などがあります。総務省消防庁の統計によれば、平成以降、全国の消防団員数は100万人を下回り、減少傾向にあるとともに、近年では、その平均年齢も上昇しています。地域に住む人々の近所づきあいや地域への関わり方も変わりつつあります。日頃から顔見知りであり、付き合いを通じて信頼関係が生まれている場合と、そうではない場合とを比較すると、「共助」の仕組みは、前者では機能し、後者では機能しにくいと考えられます。
 まさに「ソーシャルキャピタル」が地域コミュニティの中で、どれだけ醸成されているかということが災害発生時における「共助」に大きな影響を与えると言っても過言ではないでしょう。
 しかし地域には、多様な価値観を持つ人々が住み、それぞれが感じる幸せも異なります。そこで、地域全体として、皆がどのようなコミュニティを形成し、どのように集合的な意思決定を行っていくかという「コミュニティ・マネジメント」が求められます。これが「小さな」民主主義の原点でもあると言えます。

(執筆:矢尾板俊平)

日々是総合政策No.80

美しい誤解

 本コラムNo.33「サーベル行政」でお話したように、補助金予算の執行は案外難しい。地方分権の御旗の下で都道府県や市町村に予算を交付しても、恐らく国の役人に代わって多数の地方の役人が苦労するに違いない。私は1980年前後に農林水産省で補助金により市町村を支援する公共事業を担当した。農村の生活環境を改善するために、灌漑排水施設・農道などとともに集落道路や排水路といった生活施設を整備する事業である。各地区の事業内容は予算額の制約とともに補助金の対象になるための要件で制約される。事業目的、公共性、技術的妥当性、費用対効果と整備水準の妥当性、各種法令との整合性などであるが、要綱などの文書に書かれているものの、抽象的な場合や逆に明確すぎて現地の状況に合わない場合も多い。
 例えば、公共性の判断なら、公共事業なのだから公道から家の玄関に通じる私道は整備できない。国語辞典では「広く社会一般に利害を有する性格」を公共性とするが、「広く社会一般」の範囲は国か都道府県か市町村か集落か。公共事業では「2戸(軒)以上」とする場合が多い。とても明確な要件で、「この井戸は2戸の家が使用しているのでOK」となる。しかし、ある時、1軒の家の裏山に土砂崩壊防止用の擁壁を整備する計画があった。被災するのは1戸だから当然補助対象外としたが、老練な県の担当者から「あの家が押し流されるのではないかと集落の全員が心配している。それが集落(村)というもので1戸でも公共性はある。」と反論された。つまり、「利害を有する」は物理的利害ばかりでなく精神的利害を含むと解釈したのである。
 これを認めると農村での公共事業は公共性の縛りがなくなり何でもできることになる。その時、若い私がどう対応したか忘れたが、きっとこんな具合だっただろう。地図や図面に目を凝らす。在った!想定される被災ゾーンに小屋が。犬小屋ではない。他家の作業小屋に違いない。小屋で仮眠しているうちに被災する。とか何とか。地元要望を認めつつ「2戸以上」を死守する。「行政は芸術だ」とか勝手に酔いしれつつ終電車に急ぎながら、「男女の恋愛と行政は美しい誤解で成り立っている」と自分に言い聞かせる。

(執筆:元杉昭男)