日々是総合政策No.77

「ノー・チャンス・マダム」(下)

 マダムたるもの、優雅に自宅でお茶でも飲み、ドライバーが持ってきたガソリンの領収書通りにお金を渡せば良いのだが、何回かプロセスを繰り返しているうちに、どうやらガソリンスタンド店員とドライバーが示し合わせて、かなりの金額を上乗せしていることに気づいた。はて、どうしたものか…若い私は頭を抱えた。
ナイジェリアは人口1億9,600万人、経済規模は2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大となった「アフリカの巨人」だ(注)。「俺たちは、アフリカのナンバーワンだ。南アはヨーロッパで、アフリカじゃない」と、滞在中ナイジェリア人から何度も聞かされた。
 この国の命運を握る原油、通称「ボニーライト」は、「精製が不要」と言説されるほど硫黄分が少なくて良質である。輸出・歳入の多くはこの原油に由来する。
 ところが、精油所が故障で稼働しないことも一因となり、豊富で良質な原油は自国消費ではなく輸出へ回され、それと入れ違う形で他国から自国用の燃料を輸入している。政府は、自国消費の燃料価格を低く抑える補助金を出し続け、輸出・生産・消費・政治の四重のねじれ構造が、しばしば限界点を超える。
 その時、何が起きるか。抗議デモや暴動は想像に容易いが、現実に人々にとって深刻なものの一つが、輸入燃料不足によるガソリンスタンドの閉鎖である。人々は、ガソリンスタンド前に車ごと長蛇の列を作り、ある時は叫び、ある時は音楽を流し、ある時は喧嘩をしながら再開をひたすら待つ。値段は当然上がり、しかも乱高下する。
 そこで、それに便乗した例の「値段上乗せ」が起きることになる。なにせ、定価がないのだ。明日も分からない。
 未熟な私は、その詐称行為とも思える行動が許せず、なんとマダム自ら同乗し(私以外にも数例聞いたので、私だけではない。言い訳がましいが)後部座席からメーターを確認し、自らお金を払う、という行為に出た。当然、ドライバーは小銭をくすねることができず、不満が溜まる。気づいたら、彼はさっさとトンズラし、払いのいいアメリカ大使館館員の私設ドライバーになっていた。
 そこで私につけられたあだ名が「ノー・チャンス・マダム」。
 自分の若さもさることながら、当時のナイジェリアの空気や世相を、若干の苦い記憶とともに私に思い出させる懐かしい言葉である。

(執筆:杉浦未希子)

(注)外務省 ナイジェリア基礎データ
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nigeria/data.html 2019年9月17日閲覧)

日々是総合政策No.76

公共政策における文脈

 文脈とは条件、背景、意味の関係性を指す。公共政策を構造的に理解するためには、文脈の理解が欠かせない。EPA(Economic Partnership Agreement:経済連携協定)、日米貿易交渉、1938年電力管理法制定の3つの例を挙げて説明しよう。
 第1に、EPAではフイリピン、ベトナム、インドネシアから候補者を受け入れ、国家試験合格の後に日本で介護士や看護師として働くことが想定されている。日本は医療・介護での人材不足を補い、外国は人材派遣による外貨獲得が可能となる。また、自動車などの関税引き下げをこれらの国と協定として結んでいる。日本は安い値段で商品を輸出でき、外国は日本の商品を安く購入できる。この一見関係ないように見える2つの政策が1つの文脈で結びつき、日本における医療・介護の人材供給不足の解消という政策と、アジア諸国への貿易輸出の拡大という政策とが連結している。
 第2に、日米貿易交渉でも文脈は重要である。日本の自動車や半導体の輸出に対してアメリカからは輸出枠の割り当てが示され、アメリカから日本への農産物の輸入割り当てが交換条件とされることが多い。さらには日米安全保障などの国防政策と連結し、日本とアメリカの経済貿易交渉が決定されることもある。つまり、米軍の基地負担を日本政府に上乗せされたり、国防でのアメリカの順守を約束する代わりに、自動車関税の引き下げを保証したりすることが行われてきた。まさしく国内政治と国際政治は連結し、農業政策と経済政策が関係し、国防政策と貿易政策とが連結しているのである。
 第3に、このような政策連結は過去にも例があった。1938年の第1次近衛文麿内閣は盧溝橋事件に伴う対中国外交に苦慮していた。また緊急勅令による選挙法改正を行い、近衛新党によって総選挙を行う噂が衆議院で流布された。既存政党が崩壊する危機に立憲民政党や立憲政友会は動揺し、貴族院も対中国外交の重要性を認識し、近衛文麿内閣の崩壊を危惧した。その結果、電力管理法は背景の異なる対中国外交や内閣総辞職・衆議院解散と結びつき、R.パットナムが言う二層ゲームを形成しながら衆議院や貴族院で法案が通過したのである。

(執筆:武智秀之)

日々是総合政策No.75

政府間関係にとらわれない日韓関係の構築を(上)

 ここ数カ月の間に、日本と韓国の関係が悪化していると思わせることが多々起きている。長年の課題である歴史問題や領土問題に端を発し、慰安婦問題への抗議としての少女像の設置、韓国海軍によるレーダー照射問題、さらには徴用工訴訟において韓国の大法院が日本企業に対する損害賠償を命じる判決に関する問題等が続く中で、8月に韓国政府が日韓のGSOMIA(General Security of Military Information Agreement、軍事情報包括保護協定)破棄を決定した。また、同月に日本政府も輸出優遇国(ホワイト国)から韓国を除外している。両国の政府間関係が悪化する中で懸念されるのは、両国の国民が相互に嫌悪感を持ち、人々の感情にも悪影響を及ぼす可能性である。さらに、二国間にこのような問題が起きる中で、最近のメディア等においては韓国に対する批判的な言動が目に付くようになった(注1)。そのような言動に対して、朝日新聞は社説で、一部のメディアでは韓国を「感情的に遠ざけるような言葉が多用されている」と嫌韓をあおる風潮を懸念する(注2)。朝日新聞が指摘するように、政府間関係の悪化と一部のメディアの風潮は、人々に偏った韓国観をもたらすだろう。
 現在の日本社会における偏った韓国観の問題は、政府間関係から作られる韓国のイメージが先走り、多様な韓国を政府間関係の側面からのみとらえることにある。この問題を考える際に参考にしたいのは、2017年に愛知大学で開かれたシンポジウム「新しい次元に向かう日中関係」における議論である。そこでは日中関係を政府間関係でとらえることに限界があると指摘し、日中関係を多様にとらえることを提起した。歴史問題や領土問題などによる日中政府間関係の悪化が危惧される中においても、日中の民間は絶えず交流し独自の関係を築いてきた。しかし、日中関係を政府間関係としてとらえることでそれ以外の関係が見えにくくなるという。同様の政治問題を抱える日韓関係においても、二国間関係を政府間関係としてとらえることに限界があるのではないだろうか。視点を固定することで韓国のその他の側面が見えにくくなっていると考える。

(執筆:深田有子)

(注1)例えば、今年4月号の『文藝春秋』では「『日韓断交』完全シミュレーション」、9月13日号の『週刊ポスト』では「韓国なんて要らない」、10月号の『WiLL』では「NO韓国―絶縁宣言!」など、特集が組まれている。
(注2)朝日新聞.2019年9月16日.「(社説)嫌韓とメディア 反感あおる風潮を憂う」https://www.asahi.com/articles/DA3S14179020.html?iref=editorial_backnumber (2019年9月16日アクセス).

日々是総合政策No.74

日本的論理を疑う(3)

 1990年代の米国でインターネットを利活用した経済活動や国民生活が普及拡大し、2000年代には韓国、日本や中国でも急速に普及拡大した。当初は固定電話網を利用した有線インターネットが中心であったが、無線技術の発展に伴って3G、4Gが急拡大し、今年からは5G(第5世代移動通信網)の時代にはいった。今では、道を歩く人や電車・バスに乗る人の多くが四六時中スマホをいじっている。
 中国では、都市でも農村でも、大企業でも道端の個人店舗でも、スマホを使ってのQRコード決済が普及し、現金を持ち歩かない人も多い。市内を移動する際にも、スマホを使って近くにいる車を呼び出し、スマホを使って決済する。それを見ていると、まるで魔法のお金のやりとりに見え、ほんとうにお金が支払われ、受け取られているのだろうかと疑ってしまう。それに対して、日本では今でも現金で支払うのが普通である。
ところで、私のように、スマホを使っての決済(支払いや送金)ができない人と、スマートなスマホ操作でそれを実現する人の間での格差を「デジタル・デバイド」という。私が問題にしたいのは、この用語をめぐっても日本の定義が特殊であることだ。日本では、デジタル・デバイドを「情報格差がもたらす貧富の差や所得格差」と定義するものが多い。前回のデフレの定義と似た構図である。
 つまり、情報格差の存在=原因、所得格差=結果、という関係なのに、原因と結果を一緒にしてデジタル・デバイドと定義しているのである。でも、よく考えてみよう。パソコンをうまく使えこなせない人が就職から排除され、失業や低所得に甘んじているのだろうか。例えば、書道の先生は職に就けず、失業か低所得に追いやられているのだろうか。
情報格差が存在しても、必ずしも所得格差にならないし、そもそも所得格差を引き起こすとされる情報格差の「情報」とは一体何なのか。論理的に厳密な定義に基づく分析を十分に行うことなく、相変わらず、雑な論理で今の社会を分かったつもりの人間が多い。それは不勉強な個人だけでなく、言葉や論理を厳密にとらえない政府や研究者にも当てはまる。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.73

対IBM政策にみる総合政策

 政策研究は仕組み作りと筆者は考えています。
 法などに基づく制度,人材の維持更新制度,運営経費負担の仕組み,などが主な領域として多くの方々にご理解いただけるかと思います。
 筆者がその渦中にあって経験した,今までで最も大きな事例は1970年代前後におけるコンピュータ関連の政策でした。これを主導したのは通商産業省(当時,通産省と略す,現在は経済産業省)でした。
 戦後,国内産業の保護育成を主導した通産省は,希少な外貨を運用する外国為替予算制度(1950年~1964年)を用いて外国製製品の輸入を統御していました。コンピュータの輸入もこの仕組みの中で取り扱われていました。また,外資法(1950年~1980年)を用いて外国資本を制限しました。そのほか,「日本電子計算機株式会社」(1961年~)を設立し,国産コンピュータを一括購入して44月で割った月額で企業にレンタルする仕組みを用意しました。
 IBMは,コンピュータについては後発企業でしたが,資金力や営業力そして開発力は抜きん出ており,1965年には「システム/360」,1970年には「システム/370」を開発するなどコンピュータ業界を牽引する企業へと巨大化していきます。日本へも門戸開放を迫って来る中で,通産省は粘り強く交渉を重ねたことで,日本のコンピュータ企業による「IBM互換機」開発への道が開かれました。この合意後,通産省は国内企業の強化を目指し,1972年から稼働します。政府開発資金の集中投入,重複の研究開発禁止,販売会社の一本化を課し,国内の2大企業(日立,富士通)でMシリーズを,技術導入先が同じ2社(NEC,東芝)で ACOSシリーズを,残る2社(三菱,沖電気)で COSMOシリーズを形成させました。筆者の経験したことは,国内企業が成果を目に見える形にし始めた時期だったのです。
 紹介した通産省の例では,時限立法によって仕組みの終了を図っていますが,希な例でしょう。一度組み立てられた仕組みの大枠は容易に変更できない以上,仕組みの提案の中に組み込めれば良いのですが,具体的にどうすれば良いのか見当も付きません。諸々のことを踏まえながら,より良い方法を見いだして行けたらと思っています。

(執筆:小林仁)

日々是総合政策No.72

代議制民主主義:半代表と純粋代表

 「1人1票と1円1票」(No.7)でお話しした多数決ルールは、暗黙のうちに直接民主主義を前提にしていました。今回は代議制民主主義について、考えてみましょう(注)。
 代議制民主主義は、国民や住民の選挙によって選ばれた議員が、議会で国民や住民を代表して集合的意思決定を行う制度です。代議制民主主義は、今日の国家や地方公共団体のような大規模な社会では有権者が多過ぎて、すべての有権者が直接に参加して集合的意思決定を行うことが困難のため、直接民主主義の擬制として採用されてきた制度といえます。しかし、まったく異なる代議制概念もあるのです。これは、直接民主主義の擬制としてではなく、直接民主主義が持つ弊害すなわち大衆迎合的な衆愚政治といわれる弊害を克服するために、選ばれた立派な人物すなわち選良が一般国民に代わり集合的意思決定を行う制度として理解されるものです。
 この2つの代議制概念の相違は、有権者と議員の関係の違いにあります。直接民主主義の擬制としての代議制では、議員は有権者の代理人に過ぎず、有権者の意思を政治に反映させることが求められています。この代表は、「半代表」ともいわれます。これに対し、選良が一般国民に代わり集合的意思決定を行う制度としての代議制では、議員が有権者から白紙委任を受けており、選任された後は、有権者とは独立に自らの判断で政治決定を行うことが期待されています。この考え方による代表は、「純粋代表」といわれ「半代表」に対比されています。半代表は人民代表、純粋代表は国民代表といわれることもあります。
 この異なる意味の代表を選ぶ選挙制度は、その理念の違いから、望ましい制度のあり方も違ってきます。半代表(人民代表)を選ぶ選挙制度としては比例代表制が、純粋代表(国民代表)を選ぶ選挙制度としては小選挙区制が良いとされています。現実の代議制民主主義は、半代表と純粋代表とを併せ持った制度になっています。次回は、代議制民主主義における投票と棄権について考えます。

(執筆:横山彰)

(注)今回の論述は、横山彰(1998)「代議制民主主義の経済理論」田中廣滋・御船洋・ 横山彰・飯島大邦『公共経済学』東洋経済新報社、196頁に基づいている。